柴田勝家の家紋
柴田氏の家紋は「二つ雁金」といわれています。
上が口を開き、下が閉じて「阿吽」のかたちをしています。柴田勝家ゆかりの北ノ庄(現在の福井市)では、この家紋に由来してか2羽の雁を見ると勝家と妻・市(信長の妹)が戻ってきたと考えたそうです。
雁金紋は、渡り鳥のガンを文様化したものです。かつてはカリと呼ばれ、家紋も「かりがね」と読みます。古来、手紙を運ぶ鳥、縁起の良い鳥とされ、文様も古くからみられます。
織田家古参の家臣・鬼柴田
織田信長の父・信秀の代から織田家に仕えていた柴田勝家。信秀の死に始まる家督争いでは、当時仕えていた信長の弟・信行についていました。
しかし、「稲生の戦い(1556年)」の敗戦や、1度許された信行が再び信長の命を狙ったため見限ることに。そして、信長に密告するかたちで信行を裏切り、兄は弟を謀殺(1558年)。以降は信長に臣従しました。
ただ、勝家が出陣するようになるのは、足利義昭を報じての上洛戦(1568年)からになります。
それ以降の戦にはほぼ参加しているものの、「桶狭間の戦い(1560年)」「稲葉山城の戦い(1567年)」といった、信長の前半の大舞台は不参加だったようです。
「鬼柴田」と呼ばれた武勇に優れる人物には意外なことですが、これは家臣になった経緯のためとも、信行の遺児・信澄の養育をしていたためともいわれます。
秀吉に敗れ、命尽きる
勝家は越前一向一揆を収める(1575年)と、越前国(福井県)を与えられ、北ノ庄城を拠点に領国経営に着手しました。勝家は戦だけでなく政治にも光るものがあったようで、善政を敷いて領民に慕われたといいます。
翌年には、北陸方面軍司令官として、90年にもわたって一向一揆が続く加賀国(石川県)の平定を任されました。この一向一揆をも収めた勝家は、織田家中の重鎮、そして百戦錬磨の猛将として大きな働きをしてきたといえるでしょう。
そんな彼が潰えたのは、「本能寺の変(1582年)」の翌年でした。「清洲会議」で勝家は、もともと仲の悪かった秀吉と対立。そして、明智光秀を討ち、実質的な後継者となっていた秀吉を相手に、ついに賤ケ岳で対峙することとなったのです。
これに敗北した勝家は、本拠の北ノ庄城に戻ると妻とともに自害。織田家中の重鎮は、信長から秀吉へと変わる時代の狭間に消えたのでした。
主君の妹をめとり、死を共にする
勝家の妻・市は、信長の妹です。彼女は信長を裏切った浅井長政の妻でしたが、小谷城落城(1573年)の折に娘たち(茶々、初、江)とともに、織田家に戻りました。
そして信長の死後、勝家のもとに3姉妹を連れて嫁することになりました。彼女はこのとき37歳で、還暦くらいの勝家(生年に諸説あり)とは親子ほどの年の差がありました。
勝家と市が夫婦だったのは半年ほどのことでしたが、3姉妹ともども厚く遇されたようです。
戦に敗れた勝家は、市に逃げるよう諭しました。しかし市は拒否。3姉妹は保護されましたが、その母は夫とともに黄泉の道に進む選択をしたのでした。
柴田勝家のお墓
柴田勝家のお墓は、西光寺(福井市)にあります。
このお寺は勝家と市の菩提寺で、勝家ゆかりの品も多数残され、資料館も併設されています(要予約)。
また、幡岳寺(滋賀県高島市)には位牌があります。このお寺は、勝家の甥・佐久間安政が勝家・市夫婦や、兄・佐久間盛政の菩提を弔うために建立しました。
慶長年間(安土桃山~江戸時代)の創建とされ、当時の勝家や盛政の位牌が現存しています。また、寺号は勝家の戒名「幡岳寺殿籌山勝公大居士」に由来するそうです。