【連載:おはかもん】猛る武将の大活躍は2匹の龍の加護か?島津義弘

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島津義弘の家紋

丸に十字(島津家)

島津氏の家紋は「丸に十字」といわれています。島津氏初代・忠久が、戦いの恩賞として源頼朝から賜ったものと伝えられていますが、この頃は丸がない「十字」だったようです。これは、2匹の龍がクロスしたものという説があります。

十字

家紋の歴史に触れると、武士たちは源平の合戦(平安末期)くらいから、敵味方を区別するため紋を使用するようになりました。この頃の家紋の形はシンプルなものが多く、島津氏の十字は初期の家紋のお手本のようなタイプといえるでしょう。

ちなみに、島津製作所の「島津」と社章の「丸に十の字」は、島津義弘に端を発します。

彼が領地の検分をする際、尽力した人物に感謝の印として姓と家紋を贈ったそうです。そして、その人物が後の島津製作所創業者・初代島津源蔵なのです。

精鋭島津軍を率いた猛将

島津義弘は、16代当主・義久のすぐ下の弟です。武勇に優れ、「鬼島津」と呼ばれ恐れられたといいます。

武勇に優れる彼は、兄とともに九州各地を戦ってきましたが、そのさなかに起こったのが豊臣秀吉の「九州平定(1587年)」でした。

島津義弘

義弘は猛将のさがか徹底抗戦を主張しましたが、降伏の道を選んだ兄に説得されたといいます。

精鋭を誇る島津軍といえども、数で押してくる秀吉に対抗し切れるはずもありません。また、ここで戦って自軍の勢力を削ぐよりも、温存しておいた方が後々プラスになると考えたのかもしれません。

その後の「朝鮮出兵(1592年)」での活躍などがあり、島津軍の強さは後世語られることになります。

前進して撤退せよ!島津の退き口

義弘の有名な戦は、何といっても「関ヶ原の戦い(1600年)」における敵中突破でしょう。

西軍についた島津氏は、周囲の味方が崩れていく中で退路を断たれてしまいました。そんな中、義弘は決死の撤退戦を始めます。

撤退というとしりぞくイメージですが、島津軍は正面突破を図ったといいます。

秀吉子飼いの福島正則や、徳川四天王の井伊直政といった武将の軍勢を破り、多くの犠牲を払いながらも帰還を果たしました。これは「島津の退き口」として、つとに知られます。

その後、徳川家康との和平交渉にあたるのですが、このとき撤退戦で傷を負わせた直政に仲介を頼んだそうです。

敵ながらあっぱれの気風がまだまだ残る時代ということもありましょう、直政は奔走してくれて、結果島津氏は領地をそのまま治め続けられるという西軍としては異例の処置に終わりました。

義弘は隠居後、後進の育成に努めました。ですが、さしもの猛将も寄る年波には勝てず、85歳でこの世を去りました。

最強の島津を作った「島津四兄弟」

薩摩を本拠地に、最盛期には九州のほとんどを手中に収めた島津氏。歴代当主には有能な人物が多く「島津に暗君なし」といわれるほどです。

幕末の薩摩を統べ、集成館事業(薩摩藩で行われた製鉄など洋式産業のこと)などで知られる28代当主・斉彬も、名君のひとりです。

そして、戦国時代に「島津最強」を知らしめたのが、義弘たち「島津四兄弟」です。

長男の義久は16代当主。弟・義弘の武名に隠れがちですが、抜群の戦略センスと指揮能力を持ち、血気盛んな弟たちを統べる司令塔です。

次男の義弘は、先述の通りの勇猛果敢な武将で、義久の右腕でもありました。

三男の歳久も優れた武将でしたが、反秀吉と捉えられていたため朝鮮出兵と同年に島津氏の家臣たちが起こした秀吉に対する反乱の責任をとって自害。

四男の家久も優れた武将でしたが、九州平定のさなかに急死しています。

下の2人は早くに亡くなってしまいましたが、彼らの知勇があったからこそ、秀吉からも家康からも本拠地・薩摩を守り抜けたといえるでしょう。

島津義弘のお墓

島津義弘のお墓は、福昌寺跡(鹿児島市)にあります。

福昌寺跡の墓

福昌寺は島津氏の菩提寺でしたが、明治2年に廃仏毀釈により廃寺となりました。義弘以外にも、歴代当主の墓地群が残っています。

そのほか、高野山奥の院(和歌山県高野町)には「薩摩島津家墓所」があります。

高野山奥の院の墓

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