長宗我部元親 四国に繁茂し枯れた土佐のカタバミ

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長宗我部元親の家紋

七つ片喰(長曾我部家)

長宗我部氏の家紋は「七つ片喰」といわれています。

その由来は、平安末期から鎌倉時代初期にさかのぼります。長宗我部氏の後裔とされる秦氏の秦能俊という人が、土佐へ役人として赴任することになりました。その際、別れの盃にカタバミの葉が浮いていたため、これを家紋にしたと伝えられています。

ちなみに、この赴任の際に土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)に住んだことから、長宗我部氏を称するようになったそうです。

信長と同盟を結び、勢力拡大

長宗我部元親

四国を平定した土佐の戦国大名・長宗我部元親。彼が父・国親の急死により家督を継いだ頃、土佐では複数の豪族が勢力争いを繰り広げていました。元親は一領具足(普段は農業に従事し、有事の際には兵士となる半農半兵組織のこと)を用いて戦力を増強し、勢力を拡大していきます。

そして1575年、土佐を完全に統一。その後、彼の野心は伊予・阿波・讃岐へ向けられます。

元親の正室は、明智光秀の家臣・斎藤利三の義妹でした。当時、光秀は織田信長のもとにいましたので、その関係を利用して信長と同盟を結び、四国で勢力を広げていきます。

ところが信長は、その急な勢力拡大に感じるところがあったようで、元親に対して「四国の半分(土佐・阿波)をやるから臣従しろ」と言い出します。ここまで苦労してきた元親は要求を拒絶、織田家と敵対関係となりました。

2度の四国攻め、1度目は回避するも…

1582年、神戸信孝(信長の3男)による四国攻めが進められました。ところが、彼らが四国へ渡らんとした6月2日に「本能寺の変」が勃発、四国攻めは中止されたのです。

ギリギリのところでピンチを回避した元親は、信長の急死により織田家中が混乱している間に、再び勢力拡大に動き出します。そして1585年、四国全土をほぼ統一しました。

しかし、秀吉によって再び四国攻めが行われることとなります。秀吉は、元親に対し伊予・讃岐の返納を要求します。元親はそれを飲むことができず決裂、10万の豊臣軍が四国に押し寄せることとなってしまいました。抗戦ののち降伏し、秀吉に臣従を誓って土佐一国を安堵されることとなります。

嫡男の死により精彩を欠く

1587年、九州攻めに参加した元親に悲劇が襲います。それは、嫡男・信親の戦死でした。これを境に、元親は人が変わったようになったといいます。

それまでは裏切りにあっても、人質である裏切り者の親族を殺すことなく優遇したり送り返したりする情け深さがあり、律儀な人物とされてきました。そんな、かつての元親にあるまじき行いが増えていったのです。

嫡男亡き後の家督相続では4男・盛親を後継に据えていますが、次男や3男がいながらのこの采配に反対した家臣は、長宗我部一門であっても粛清したといいます。

また、出奔しようとした3男を幽閉(1599年)したことも。このような状況に、長宗我部家中は混乱に陥ったといわれています。

そして、この幽閉騒ぎの直後から体調を崩した元親はあえなく死去。後を継いだ盛親は「関ヶ原の戦い(1600年)」で西軍に属して領地を没収され、さらに「大坂の陣」では豊臣方に与して盛親も子も斬首され、戦国大名・長宗我部氏は滅亡してしまいました。

姫と揶揄された少年時代

槍の名手として名を馳せた元親は、幼少の頃は色白でおとなしい、ぼんやりとした少年だったといいます。嫡男のそんな様子は歴戦の武将である父を悩ませていたそうで、家臣にまで「姫若子」と揶揄されていたともいわれます。

ところが、23歳という遅い初陣を飾ってからはすさまじい武者ぶりを見せ、四国にその名を轟かせていきました。民政も尽くす知勇を兼ね備えた領主でしたが、息子の死が彼を、そして長宗我部氏の運命を変えてしまいました。

長宗我部元親のお墓

長宗我部元親のお墓は、高知市の天甫寺山にあります。

天甫寺山の墓

当時、この山には天甫寺というお寺があり、遺言によりこの地に葬られたとされています。

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