【連載:おはかもん】毛利元就 三つ星のごとく両川を率いた知将の家紋

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毛利元就の家紋

一文字に三つ星(毛利家)

毛利氏の家紋は「一文字に三つ星」といわれています。

毛利氏は、奈良時代末期に桓武天皇が縁戚者に与えた「大枝氏」の流れをくみます。

のちに大江と漢字を変えましたが、この大江氏の一族は、毛利氏に限らず「一文字に三つ星」を用いる家が多いそうです。

家紋の星が示すのは北極星のことですが、「三つ星」は古代中国における大将軍と左右将軍を表していて、将軍星とも呼ばれます。

長門沢瀉

毛利氏の替紋(略式や私用などで使う家紋)は「長門沢瀉」といわれます。これは元就が合戦の最中に、「勝ち草」のオモダカに「勝ち虫」のトンボがとまっているのを見て用いたといわれています。

不遇な少年時代を過ごし、毛利家当主に

毛利元就

戦国きっての知将・毛利元就は1497年、安芸(現在の広島県)の国人(その地方の土着の武士)の次男として生まれました。

当時の中国地方は出雲(島根県)・尼子氏と周防(山口県)・大内氏が抜きんでており、毛利氏は大内氏の勢力下にありました。

元就の兄が家督を継ぐと、元就は隠居した父とともに本拠・吉田郡山城から引っ越します。

ところが、10歳のときにこの父が亡くなると後見役だった家臣に所領を横取りされてしまったのです。困窮した元就でしたが、15歳のときにこの家臣が急死したことで城に戻ることができました。

苦労した少年時代でしたが、20歳で転機が訪れます。毛利本家総領たる兄が亡くなったのです。家督はわずか2歳の嫡男が継ぐことになりますが、叔父である元就は彼の後見となりました。

ところが、この甥が9歳で亡くなり、元就に毛利本家の家督が転がり込んできたのです。

当主となった元就は、戦や婚姻で勢力を広げていきました。そのさなかの1540年、尼子軍と戦火を交えることになります(吉田郡山城の戦い)。

大内氏からの援軍もあって勝利した元就は、安芸の中心的存在に躍り出るのでした。

中国地方を制覇し、長寿を終える

「毛利の両川」で知られる吉川氏と小早川氏の乗っ取りは、この頃から始まったようです。

元就は次男・元春と三男・隆景をそれぞれ吉川氏と小早川氏に養子に出し、いずれも家督を継がせることで毛利氏の分家としました。

これにより新たな領地や兵を得たのですが、とくに小早川氏は水軍を有していたため、毛利氏にこれまでなかった戦力が加わることになりました。

この水軍が活躍した、毛利氏の有名な戦のひとつが、陶晴賢率いる大内軍との「厳島の戦い(1555年)」です。

このとき元就はすでに60歳近くでしたが、頭脳の劣らぬさまを見せつけてくれました。夕闇と嵐に紛れて敵軍の背後を陣取り、海上には小早川水軍を配置。早朝に奇襲して大軍相手に鮮やかな勝利を収めたのです。

こうして大内氏の領地である周防と長門を手に入れた元就は、尼子氏との「第2次月山富田城の戦い(1565年)」に勝利。

その領地である石見・出雲・壱岐・伯耆を手に入れ、中国地方に覇を唱えたのでした。

70歳も間近の元就は、この頃から病がちになったといいます。何度か持ち直しましたが1571年、吉田郡山城で死去。75年の生涯を閉じたのでした。

毛利の三兄弟を生んだ正室・妙玖

元就には、隆元・元春・隆景という有名な三兄弟がいます。彼らは母を同じくしており、その名を妙玖(法名)といいます。彼女の実家は、元春が養子に入ることとなる吉川氏です。

夫婦仲がよく、元就は長男・隆元への手紙で、「妙玖のことばかり思い出す」「妙玖が、この世にいてくれたらいいのに」といった旨を書いています。

彼の武将としての生きざまに反して、夫婦の仲は穏やかなものだったことがうかがえます。

毛利元就のお墓

毛利元就のお墓は、毛利氏の居城・吉田郡山城(広島県安芸高田市)内の洞春寺跡にあります。

洞春寺跡の墓

洞春寺は、元就の3回忌に建立された菩提寺で、跡地には元就のほか毛利氏一族のお墓などもあります。

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