【連載:おはかもん】三菱マークの源にもなった家紋?信長・秀吉・家康に仕えた山内一豊

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山内一豊の家紋

丸に土佐柏(山内家)

山内氏の家紋は「丸に土佐柏」といわれています。

これは、一豊の父が戦の途中で指物(戦の間、鎧の背にさして目印にした小旗や飾り物のこと)が失われたため、代わりに近くにあった柏の枝をさして戦ったところ、勝利したという伝承に由来
するそうです。

柏紋は、柏の葉を模した家紋です。古来、柏は神木とされ、その葉は神事用の食器として用いられていました。その流れから、と考えられています。

ちなみに、三菱グループの「スリーダイヤ」は、「丸に土佐柏」に由来するといいます。創業者・岩崎弥太郎氏が土佐出身で、藩主である山内家の家紋をデザイン化したと考えられているのです。

主を変え、槍働きで出世

山内一豊

山内一豊の家は、織田信長と敵対する岩倉織田氏に仕えていました。信長との争いの中で主家と、当時の山内家当主である父・盛豊を失った一豊は流浪の身となり、諸国の武将を渡り歩いて生きてきました。

1568年頃、一豊が24歳の頃に信長の配下になったようで、豊臣秀吉のもとで戦に従事するようになりました。

そして、浅井・朝倉連合軍と戦った「姉川の戦い(1570年)」に参加したときの槍働きにより、近江国400石を与えられ、ようやく領地を得ることとなります。

また正室・見性院とは、この頃に出会ったといわれています。1581年に信長が行った軍事パレード「京都御馬揃え」に、彼女のへそくりで買った名馬で参加したというエピソードはあまりに有名です。

これにより信長の目に留まったともいわれており、こうした見性院の夫を献身的に支える姿は、「内助の功」の由来ともいわれています。

さて、「本能寺の変(1582年)」以降の一豊は、秀吉のもとで着実に出世を重ねていきました。

まずは「賤ケ岳の戦い(1583年)」や「小牧・長久手の戦い(1584年)」などで功績をあげ、近江国長浜城主として2万石を得るまでになります。そして「小田原征伐(1590年)」などを経て、遠江国掛川に5万1000石を得ました。

家康に従い、土佐藩初代藩主となる

「関ヶ原の戦い(1600年)」が起こると、去就に迷う諸将に先んじるかたちで東軍に与しました。そして周辺勢力が東軍に属するよう取りまとめも行い、これらの功績から家康より土佐国一国を与えられました。

一豊が土佐に移ったのは1601年のことですが、もともとこの地を治めていた長宗我部氏の家臣団は必ずしも一豊たちを歓迎しませんでした。

それに起因する多くの紛争も起こっています。一方で、新しい居城として高知城と城下町の建設が行われました。

一豊は1605年、高知城にて死去。「大坂の陣(1614年・15年)」による豊臣氏滅亡をみることなく、この世を去りました。

信長に仕える前から、さまざまな武将のもとを転々としていた一豊。信長・秀吉・家康に仕え、土佐一国を統べるまでになった彼の生涯は、うまく時流に乗った賜物だったともいえるでしょう。

山内一豊のお墓

高野山の墓

山内一豊のお墓は、「土佐高知山内家墓所」として高野山(和歌山県高野町)のほか、真如寺(高知市)にもあります。

真如寺は一豊が土佐を治めるにあたり、旧領である掛川の菩提寺・真如寺から住職を招いて土佐にも真如寺を開創し、菩提寺としたようです。

妙心寺(京都市右京区)の塔頭・大通院には、一豊と見性院の御廟があります。このお寺は、二世住持が一豊の養子だった縁で菩提寺になったといわれています。

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