鳥の巣を模した木瓜紋を掲げ、己が巣を広げた風雲児 織田信長の家紋

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織田信長の家紋

織田木瓜(織田家)

織田氏の家紋は「織田木瓜」といわれています。これは、織田氏が越前にいた頃、朝倉氏(家紋は「三つ盛り木瓜」)から妻を迎えた折に与えられたとされています。この朝倉氏から、信長と対峙する朝倉義景が現れます。

三つ盛り木瓜(朝倉家)

木瓜紋は、鳥の巣を模した文様といわれます。これが平安時代、装束や車に用いられていて、やがて家紋になったと考えられています。

尾張の小大名、京都を目指す

「応仁の乱(1467~1478年)」から100年もの間、各地の戦国大名は領地争いをしていました。そこに抜群の存在感を持って躍り出たのが、尾張国の織田信長でした。

織田信長

信長は、尾張国を手中に収めたばかりの小大名。そんな弱小勢力が、周辺の国を平らげながら西へ向かう進路をとることになります。

この頃、隣の駿河国には今川義元がおり、遠江国・三河国をも飲み込んだ押しも押されもせぬ大大名となっていました。東海の大大名VS尾張の小大名。周辺勢力にとって結果は火を見るより明らかだったかもしれませんが、その下馬評を信長は「桶狭間の戦い(1560年)」で見事に裏切ってみせました。

続いて美濃国の斎藤氏、越前国の朝倉氏などを次々に破り、京都に近づいていきます。そして1568年、足利義昭を奉じて京都入りを果たしたのです。

メリットとデメリットを見極める

信長は対武将の戦いだけでなく、「延暦寺焼き討ち(1571年)」や「石山合戦(1570~1580年)」など寺院への苛烈な対応も有名です。また、当初は蜜月だった足利義昭とも反目しており、戦いに次ぐ戦いの人生であったともいえるでしょう。

一方、新しもの好きで、良いものならばその来歴などは問わずに導入する人物でした。その代表格が鉄砲で、これを用いて甲斐国・武田氏の騎馬軍団を破った「長篠の戦い(1575年)」はつとに知られます。

本能寺炎上!ひるがえる水色桔梗

そんな信長の人生が、突如幕を下ろすのが1582年のこと。中国地方を攻めんと進んでいた羽柴秀吉の援軍として、自ら出陣をすべく京都に上っていた信長は、本能寺で軍勢が集まるのを待っていました。

そこにやってきたのが、同じく中国地方へ向かっていたはずの人物。そう、明智光秀でした。彼が何を考えて行動したかは諸説ありますが、ともかく本能寺を水色桔梗で取り囲んだのです。事の次第を知った信長は奮戦しましたが、何しろ少数であり迫りくる明智軍勢を抑えきれません。そして、自ら火を放ち自ら命を絶ち切ったのです。

華々しい戦歴と、反目する相手への冷酷な仕打ち。新しいものへの興味と適応力。抜きんでた才能を持ち天下にいちばん近い信長でしたが、その最期はあっけないといってもいいものでした。

織田信長のお墓

信長のお墓は、いくつかあります。

まず、大雲院(京都市東山区)には信長と嫡男・信忠の供養塔があります。大雲寺は信長父子を弔うために二条烏丸(中京区)に創建されたお寺で、1973年、現在地に移転しました。

大雲院の供養塔

そして安土城跡(滋賀県近江八幡市)には、織田信長公本廟があります。安土城は、信長が1576年から約3年をかけて築いた居城。ですが本能寺の変後に焼失し、今残るのは石垣のみ。当時のお城には見られない壮麗な造りであったようで、その喪失が惜しまれます。なお、廟は二ノ丸跡にあり、豊臣秀吉が建立したものだそうです。

安土城跡の織田信長公本廟

他にも、高野山(和歌山県高野町)などで見ることができます。

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