細川藤孝(幽斎)引両から離れた細川の星、乱世を流れゆく

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細川藤孝の家紋

九曜(細川家)

細川氏の家紋は「九曜」といわれています。江戸時代には「細川九曜」に変更していますが、これは家紋の見間違いで当時の当主が斬りつけられてしまったため。そんなエピソードも残る細川氏の九曜紋は、実は藤孝の長男・忠興が織田信長からもらったことに端を発します。

細川九曜

では、それ以前の家紋は何だったのかといいますと、「丸の内に二つ引両」であったようです。二つ引両は主に足利氏一門が用いた家紋ですので、支流にあたる細川氏も使用したのでしょう。

丸の内に二つ引両

九曜紋は、星紋の一種です。家紋でいう星は北極星のことで、これを神格化した妙見菩薩への信仰に由来するといいます。

また、引両紋は「引き」とも呼ばれます。「両」は「竜」だったともいわれ、竜神にあやかって陣幕などに用いられました。

将軍に仕えるエリートが信長の傘下に

細川氏は名門足利氏の支流であり、室町時代には足利将軍家に次ぐナンバー2の座にありました。その分家筋に生まれた細川藤孝は文武両道、13代将軍・足利義輝に仕えるというエリート中のエリートでした。

細川藤孝

しかし、1565年に義輝が暗殺される(永禄の変)と状況は一変。幽閉されていた義輝の弟・義昭を救出した後、流浪の身となってしまいます。藤孝32歳のときでした。

義昭の将軍擁立を求めて各地を訪ね歩き、やがて明智光秀の仲介により、織田信長が上洛することとなります。

当初は蜜月だった信長と義昭ですが、やがて関係は悪化。ついに1573年、決定的な決裂を見ます。このとき、藤孝は義昭ではなく信長の傘下に入りました。以降、各地の戦いに参加しています。

乱世を巧みに生き、静かな余生を送る

1578年、藤孝の長男・忠興が光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)と結婚します。仕事でも光秀と行動することが増え、若夫婦も仲良しで、新参家臣同士、公私とも親しくしていたようでした。

そんな中で起こったのが「本能寺の変(1582年)」でした。これに対して、藤孝は信長を悼んで出家し隠居、家督を忠興に譲ってしまいます。そして忠興はというと、逆臣の娘となってしまった妻を幽閉。「われら細川は明智にはつきません」と内外に示したのです。

その後、豊臣秀吉の天下になると、武将としてはもとより文化人として重用されるようになりました。そして1598年に秀吉が死去すると、徳川家康に接近。「関ヶ原の戦い(1600年)」では東軍につき、丹後国・田辺城(現在の京都府舞鶴市)を守り抜きました(田辺城の戦い)。

このとき、藤孝は67歳と当時としては超高齢。よく守ったものと思いますが、敵方に藤孝の歌のお弟子さんがたくさんいて、攻めあぐねたともいわれます。

関ヶ原後は本格的に隠居して悠々自適な日々を過ごし、77歳で死去。波乱万丈のエリートは、静かな余生を送ったようです。

「古今伝授」を守れ!勅命による救出劇

藤孝は、当代きっての文化人でした。よく知られる幽斎という名前は、彼の雅号(文人が本名以外につける風流な名前のこと)です。

とくに和歌では、『古今和歌集』の解釈や秘説などを伝える「古今伝授」を唯一受けたほどでした。「田辺城の戦い」の際には、藤孝が敵軍に囲まれたと知った後陽成天皇が「古今伝授」の途絶を危惧して勅命を出し、講和が結ばれたと伝えられています。

細川藤孝のお墓

細川藤孝のお墓は、いくつかあります。大徳寺の塔頭・高桐院(京都市北区)には、藤孝以降の歴代当主のお墓があります。

高桐院の墓

高桐院は、息子の忠興が父のために建立した、細川氏の菩提寺です。忠興自身のお墓は歴代当主とは別の場所に、妻とともにあるそうです。

そのほか、南禅寺の塔頭・天授庵(京都市左京区)にお墓が、立田自然公園(細川家菩提寺の泰勝寺跡/熊本市)に廟があります。

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