尼子経久 家紋を同じくする京極氏を追い落とした謀略の将

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尼子経久の家紋

平四つ目結(尼子家)

尼子氏の家紋は「平四つ目結」といわれています。

尼子氏は、宇多天皇から始まる宇多源氏・佐々木氏の流れをくむ京極氏の分家で、家紋も京極氏と同じものです。

目結紋は、鹿の子絞りの古名「目結」に由来します。この染め方の歴史は古く、平安・鎌倉期には装束に染め抜くほか、調度品などにも用いられるようになりました。ここから家紋になったと考えられます。

尼子氏を中国地方の大勢力に育てる

尼子経久

尼子経久は、毛利元就に勝るとも劣らぬ謀略の将です。尼子氏は出雲守護代(守護の補佐役のこと)から戦国大名にまで上りつめ、戦での活躍のほか、鉄事業の開発や海上交易も行い勢力を広げていきました。

代々の守護代職を継いだ経久は、次第に国人(その地方の土着の武士)たちとの結びつきを強め、幕府からの要求に従わなかったり、守護・京極政経の寺社領を横領したりして権力基盤を築きました。

とはいえ、上司に背いていたのですから罰を受けることになり1484年、政経によって地位をはく奪され、本拠地・月山富田城からも追放されてしまいます。しかし、後に城を奪い返し、守護代に返り咲きます。

政経とは、彼が京極氏のお家騒動に敗れた際、関係を修復しています。尼子氏にとって京極氏は本家であり主君ですし、政経は経久が元服の際に「経」の字をもらった相手です。政経は、自身の後継者である孫の後見に、経久を指名してもいます。

しかし、相手は謀略家・経久。政経の死後ほどなくして孫が行方不明となり、経久は出雲の支配権を奪取します。こうして下剋上を成した尼子氏は、戦国大名として発展することになるのです。

因縁の相手・大内氏との決裂

1508年には大内氏とともに上洛し、足利将軍職と細川氏家督をめぐる「船岡山合戦」に参加しています。

後に敵対することとなる大内氏ですが、このときはともに戦っており、1539年までは表向きは和睦を維持していたようです。経久の三男・塩冶興久は大内義興から「興」の字をもらってもいます。

その興久が反尼子勢力として反乱を起こした(1530年)ときにも、大内氏は経久側を支援したようです。経久はこれを鎮圧し、息子の首をとる結果になりました。

経久は、1518年の戦で嫡男・政久を亡くしています。この政久が父に負けず劣らずの名将であり、教養人でもあったようで将来を期待されていました。その血が途絶えることを惜しんだようで、尼子の家督は1537年、政久の子・晴久に受け継がれました。

この頃、大内氏は豊後国(大分県)・大友氏と争っていましたが、その和睦がなると大内氏は、尼子氏の所有となっていた石見銀山を奪取、さらに尼子方の武将の城を落としてしまいます。

こうして、表向きとはいえ和睦状態だった尼子氏と大内氏の関係は破綻をきたし、毛利元就の時代に繰り広げられた尼子対大内の争いが始まった
のです。

このような情勢下の1541年、経久は本拠・月山富田城で死去。当時としては大往生の84歳でした。

気前のいい謀略家

謀略家の経久は、家臣に対しては気前のいい優しい人物だったといわれます。家臣が彼の持ち物を褒めるととても喜んで、どれほど高価なものでも相手にあげてしまったそうです。

冬に着物を褒められたときに、それを脱いで与えてしまったため、薄い綿の小袖1枚で過ごしたというエピソードもみられます。

経久が無欲の人だったということもあるでしょう。一方で、謀略家としての彼に付き従う家臣に対する、「おまえのことを使い捨てたりはしない」という気持ちの表れだったのかもしれません。

尼子経久のお墓

尼子経久のものといわれているお墓は、洞光寺(島根県安来市)にあります。

洞光寺の墓

洞光寺は本拠地・月山富田城のふもとにあったお寺で、尼子氏により創建されました。経久のものと伝わるお墓は、父・清定とともにあります。

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