藤堂高虎 数々の主君に絡まり上へ上へと伸びたツタ

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藤堂高虎の家紋

蔦(藤堂家)

 

藤堂氏の家紋は「蔦」といわれています。蔦紋は、植物のツタの葉を文様化したもので、平安期からみられます。

江戸時代に大流行し、大名から旗本まで160以上の家が使用したともいわれ、その人気は町人にも及びました。

8代将軍・徳川吉宗が好んだ紋でもあります。

各家を渡り歩き豊臣家へ

藤堂高虎

武士たる者、7度主君を変えねば武士とはいえぬ。この名言で知られるのが藤堂高虎です。

農民同然の没落武士から津藩(現在の三重県津市)の藩主に出世しましたが、その間に彼が仕えた人物は以下の通りです。

・浅井長政

・阿閉貞征(浅井氏旧臣)

・磯野員昌(浅井氏旧臣)

・津田信澄(信長の甥)

・豊臣秀長(秀吉の弟)

・豊臣秀保(秀長の養嗣子)

・豊臣秀吉

・徳川家康(以降、秀忠、家光にも仕える)

主君の代替わりを数に入れるか否かという点もあるものの、言葉通りの主替えをなしています。

津田信澄までは長続きしなかったようですが、1576年から仕えた豊臣秀長(当時は羽柴)のもとに腰を落ち着けました。

秀長は秀吉の弟であり、豊臣政権の政務、軍事、家臣たちの調整などを引き受けていた人物です。そんな主君ですから、仕事も多岐にわたったことでしょう。

高虎は戦での功績もさることながら、築城の名手としても知られます。その経験値を、秀長のもとで貯めていったのかもしれません。

1591年に秀長が亡くなると秀保に仕えましたが、彼は4年後に17歳で亡くなってしまいます。高虎は若き主君の死を悼み出家。しかし、その才を惜しんだ秀吉が呼び戻しています。

そして、秀吉の死後は徳川家康側に与し、「関ヶ原の戦い(1600年)」では大谷吉継軍を相手に戦っています。なお大谷軍は、小早川秀秋を皮切りに起こった脇坂安治ら4武将の裏切りにより敗北したといわれますが、高虎が4武将の調略を行っていたという説もあります。

外様大名ながら別格の扱いを受ける

江戸時代にも徳川家の重臣として仕え続け、津藩の初代藩主となります。この時点で22万石と、譜代大名のような石高でした。

これは、家康が高虎の才能と忠義を高く評価していたためとされ、それを表すように高虎は、家康が死の床に就くと枕元に侍ることを許されています。以後、秀忠、家光と仕えて1630年、75歳で死去しました。

主君を何度も変えたとはいうものの、豊臣家と徳川家の家臣歴は長く、外様ながら主君の覚えめでたい忠臣でした。ですが、それが気に入らない向きもあり、とくに譜代大名からはあまり好かれていなかったようです。

また、幕末の「鳥羽・伏見の戦い(1868年)」で津藩は旧幕府軍だったのですが、劣勢を察して寝返っています。そのため、旧幕府軍から「さすが藩祖(高虎)の薫陶著しいことじゃ」と皮肉られたといいます。

なお津藩は、大勢を見て寝返りはしたものの、高虎が大恩のある家康が祀られている日光東照宮への攻撃命令は拒否しています。この忠義心の方こそ、藩祖の薫陶著しいといえるのではないでしょうか。

いくつものお城を建てた築城の名手

高虎は宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城していて、加藤清正とともに築城の名手に挙げられます。ここに黒田孝高(如水/官兵衛)を加えて、三築城名人といわれることもあります。

高虎の築く城の特徴は、石垣が高いことと水堀の幅が広いこと。侵入が難しそうで、かつ飛び道具が届かない防御力の高いお城なのです。

例を挙げると、上野城(三重県伊賀市)は石垣がなんと30メートルもあります。

現在でも雑草取り、つまり登るのが大変だそうで、高虎の時代はなおのこと攻めにくいお城だったことでしょう。

藤堂高虎のお墓

藤堂高虎のお墓は、上野動物園(東京都)の「動物慰霊碑」後方の石塀で囲まれた一角にあります(非公開につき入れません)。

藤堂高虎の墓

上野動物園のある辺りは、かつて藤堂家の下屋敷でした。ここに高虎の菩提寺「寒梅院」を建立。明治になって寒梅院は移転しましたが、お墓だけは残ったというわけです。

また、津藩(三重県津市)の藤堂家菩提寺も「寒梅院」といい、こちらにもお墓があります。

いずれの「寒梅院」も、高虎の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」に由来しています。

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