【連載:おはかもん】桐とともに乱世を駆け抜け頂点を極める、豊臣秀吉

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豊臣秀吉の家紋

五七桐(豊臣家)

豊臣氏の家紋は「五七桐」といわれています。これは、秀吉が正親町天皇から豊臣の氏を賜った頃に使い始めたようです。それ以前は、信長の家臣時代に彼から与えられた「五三桐」を使用していました。

五三桐

秀吉は、これら2つの家紋を功績のあった家臣などに与えていました。その結果、桐紋を用いる家が増えてしまって希少価値がなくなってしまったことから、「太閤桐」を創作したとされています。

桐紋は、平安時代から天皇の紋として使用されており、菊紋と同様に皇室に縁の深い家紋です。日本政府の紋章にもなっており、やはり菊紋同様、日本を表わす家紋といえるでしょう。

日本一の立身出世男

豊臣秀吉の出自には農民出身、足軽出身と諸説あります。いずれにしても身分が低かったため、織田信長に仕える前のことははっきりしません。家を出て行商をしたり今川氏の陪臣の家に仕えたりした後、1554年頃に信長に仕えたといわれます。

豊臣秀吉

信長が身分ではなく能力による採用を行う人物だったこともあったでしょう、秀吉はどんどん出世していきました。機知に富んだ戦いぶりでも知られ、「墨俣の一夜城」「金ヶ崎の退き口」「中国大返し」などが有名です。

そして、「本能寺の変(1582年)」の際には明智光秀軍を討ち、織田家の有力な家臣たちを破って実質的な後継者となりました。

その後、四国の長宗我部元親、九州の島津義久、小田原の北条氏政・氏直などを征伐。そして奥州の伊達政宗を服従させ、1590年に天下統一を成し遂げました。またこの間、1583年に大坂城を、1587年に本邸・聚楽第を築いています。

その野望は大陸にも及び、明を征服しようと朝鮮半島に侵攻。しかし、第2回遠征の最中に62歳で死去しました。18の頃に信長に仕えて以来、最高権力者への階段を駆け上った彼の人生は、まさしく波瀾万丈だったといえるでしょう。

秀吉の名字は木下→羽柴→豊臣?

秀吉は、信長に仕えた頃は「木下藤吉郎」と名乗っていたといいます。その後「羽柴秀吉」になり、やがて「豊臣秀吉」となりました。

この流れ、名字を改めたのかというと少々違います。木下と羽柴は彼の名字ですが、豊臣は氏(うじ)です。氏とは、簡単にいえば血縁グループの名称です。

氏で有名なのは、源氏・平氏でしょう。いずれも各時代の天皇が、兄弟など自分の血縁者に与えた氏で、名字ではありません。

たとえば武田信玄の名字は武田ですが、これは甲斐国武田に移住した源氏が「武田」を名乗ったことに始まります。氏は源のまま変わらず、武田という名字が追加されたわけです。

ですので、秀吉の場合は豊臣の氏を賜った後も羽柴秀吉であり続けたと考えられます。身分が低く氏のなかった秀吉は、乱世を生きる中で平や藤原を名乗ってきましたが、ついに彼のために造られた新しい氏を手に入れたのです。

豊臣秀吉のお墓

豊臣秀吉のお墓は、いくつかあります。秀吉を祀る豊国神社(京都市東山区)の「豊国廟」や、高野山奥の院(和歌山県高野町)です。

高野山奥の院の墓

また不動院(広島市東区)には「太閤豊臣秀吉公遺髪の墓」があります。不動院はかつて安国寺といい、毛利氏の外交僧として知られた安国寺恵瓊が住職を務めたこともあったそうです。

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