小西行長 十字架に殉じたキリシタン大名

小西行長の家紋

中結び祇園守(小西家)

小西氏の家紋は、「中結び祇園守」といわれています。

祇園守紋は、京都八坂神社の例祭「祇園祭」で用いられていた筒状の守を紋章化したものという説があります。また、真ん中が十字架のようにクロスしていることから、キリシタンがカモフラージュのために用いたともいわれます。

ほかに「花久留子」も挙げられます。

花久留子

 

こちらは、そのものズバリ十字架をモチーフにした家紋です。名称はポルトガル語の「クルス(十字架)」に由来します。

堺の商人から肥後の大名へ

小西行長

小西行長は、商人から武士になったキリシタン大名です。生家は商人の町・大阪堺ですが、ほかの商家の養子となります。この家が備前国(現在の岡山県)にあり、宇喜多家に出入りしていました。

そのときに、当主・宇喜多直家(秀家の父)の目に留まり、取り立てられて武士となったのです。

さらに、宇喜多家の使者として豊臣秀吉のもとへ行くと、今度は秀吉の目に留まり、その家臣となりました。

秀吉のもとでは、水軍の司令官となって瀬戸内を掌握、後に肥後の南半分を治める(1588年)こととなり、宇土城(熊本県宇土市)を築城しています。

このとき、城普請に従わなかった天草の国人たちと戦になります(天草国人一揆)。

このときは肥後の北半分を治めていた加藤清正も出陣。ともに一揆を平定し、行長は天草も所領に加えることになりました。

キリシタンとしての大名・行長

天草といえばキリシタン、というイメージがありますが、この頃の天草は人口の3分の2がキリシタンであったといわれます。教会も多く、聖画・聖像やパイプオルガンなどの製作も行われていました。キリシタン大名にとってうってつけの土地といえ、行長はこれらを保護しています。

なお、行長がキリスト教徒となるのは1584年、キリシタン大名・高山右近のすすめによります。とはいえ、行長の両親もキリシタンでしたから、素養はあったようにも思えます。

右近は「バテレン追放令(1587年)」の際に信仰を選び領地を失うのですが、行長は彼をかくまっています。さらに、行き場を失った右近の旧臣たちを家臣として招いてもいます。

キリシタンゆえに切腹を拒否

行長は「関ヶ原の戦い(1600年)」では、西軍に属します。その理由には、親しくしていた石田三成に呼応したから、かつてお世話になった宇喜多家に義理立てしたから、武断派・加藤清正と対立していたから、など諸説あります。

いずれにせよ西軍は敗北し、行長には切腹が待っていました。しかし、キリスト教では自死が禁じられているため、これを拒んで斬首に処されます。

武士にとって斬首は屈辱的なこと。それを選んだ行長は、武士ではなくキリスト教徒として亡くなったのでした。

お隣さんの加藤清正とは犬猿の仲

肥後国の南半分を治める小西行長と、北半分を治める加藤清正。この二人は不仲で、何かと衝突していました。お隣さんゆえ境界線をめぐって日ごろから争っていたそうで、そこに信仰の違い(清正は日蓮宗信者)も加わって険悪といっていい間柄だったようです。

朝鮮出兵(1592年)の際にも反目しあっていた様子がうかがわれ、敵方に清正軍の上陸時期を密告したことも。作戦から講和から、とにかく何でも反目しあっていたようです。そんな状態が、やがて武断派との対立にまで発展したのかもしれません。

小西行長のお墓

小西行長のお墓は、禅幢寺(岐阜県垂井町)にあります。

禅幢寺の墓

このお寺は、関が原で敗走した行長を徳川家康に引き渡した竹中家の菩提寺ですので、敵将を供養したのかもしれません。

また、同町内の明泉寺にも供養碑があります。こちらは、晒された行長の首をひそかに埋葬した場所と伝えられているそうです。

なお、行長の遺体は教会に引き取られたといわれています。キリスト教では、司祭が臨終に立ち会い宗教的な儀式を行います。行長にはこれが叶わなかったものの、遺体を引き取った教会で改めて行われたそうです。そして、キリスト教式で葬られたとされていますが、埋葬地は分かっていません。

おはかもんの記事一覧はこちら