【連載:おはかもん】大谷吉継 石田三成との義を選び、関ヶ原に潰えた蝶

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大谷吉継の家紋

対い蝶(大谷家)

大谷氏の家紋は「対い蝶」といわれています。

大谷吉継は、この家紋を1585年頃から使い始めたようです。その前は「丸に違い鷹の羽」を用いていたとされ、彼の最期の戦となる「関ヶ原の戦い(1600年)」は、こちらの家紋で出陣したとも伝えられています。

 

丸に違い鷹の羽

蝶紋は平氏の代表家紋として知られます。その由来は、平家の所持する鎧に描かれていた、公家平氏が使い始めたなど諸説あります。文様としては奈良時代からみられ、平安・鎌倉時代にも盛んに描かれました。

豊臣政権の名奉行にして石田三成の盟友

大谷吉継

越前国敦賀の領主・大谷吉継。彼は長年の盟友・石田三成との義を選び、分がないと知りつつ西軍に与した人物として知られます。

豊臣秀吉の小姓だった吉継は、さまざまな戦に従軍してきました。「賤ケ岳の戦い(1583年)」では調略に成功。「九州攻め(1586年)」では、兵站奉行・石田三成の下に配置されています。

そして三成が堺奉行になると、その配下として実務を担当。天下分け目の「関ヶ原の戦い」に深くかかわることとなる三成との友情は、この頃に培われたのでしょうか。以降も、奉行衆のひとりとして功績を挙げていきました。

秀吉が亡くなると、徳川家康に接近します。三成の友人なら家康は敵、というわけではなく、吉継は家康を支持していたようなのです。しかし1600年、三成から反家康の挙兵を持ち掛けられます。

打倒・徳川家康を訴える三成に、吉継は再三「勝機はない」と説きました。しかし、三成の固い決心と熱意に、分がないと知りつつ西軍への参加を決意したのです。

備えていた以上の裏切りに遭い、自刃

吉継は、後に彼を裏切ることになる脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らを率いて、関ヶ原に至ります。病をおしての出陣で、顔を白い頭巾で覆い、輿に乗っていたと伝えられ、戦も後方での指揮に専念。とはいえ、そこはさすがの知将、東軍・藤堂高虎軍らを相手に奮戦しています。

しかし、大谷軍の南に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返ります。これに脇坂らが続き、大谷軍は壊滅、吉継は自刃。これを契機に西軍は総崩れ、敗北へと突き進むことになりました。

ところで、吉継は秀秋の裏切りを予見していたといわれます。脇坂らは小早川軍の前に布陣しているのですが、これは裏切られたときのための配置でした。しかし、その肝心の脇坂らが寝返り、大谷軍は挟み撃ちになってしまったのです。

自刃した吉継の首は、介錯を務めた側近・湯浅五助の手で戦場から離れたところに埋められ、東軍に見つかることはありませんでした。

顔を頭巾で覆い、輿に乗っていたわけは?

大谷吉継は、当時の表現で「業病」を患っていました。これは、前世の罪(業)の報いで得た病気という意味で、治りにくい病気や不治の病の総称でした。では、吉継が実際にはどのような病気だったかというと、その症状からハンセン病だったとする説が一般的です。

彼の状態は失明していた、足が不自由だった、顔が崩れていたなど諸説あります。眼病だったのは確かなようで、1594年に直江兼続(上杉家の家臣で、後の米沢藩家老)宛の書状に、「眼病のため、申し訳ないが花押(サイン)ではなくて印判(判子)にさせてもらう」といった一文がみられます。

大谷吉継のお墓

大谷吉継のお墓は、最期の地となった岐阜県関ヶ原町にあります。

関ケ原町の墓

これは合戦後に、刃を交えた敵・藤堂家によって建てられたものです。そして、隣には忠義の臣・湯浅五助のお墓が寄り添っています(こちらは五助の子孫が建立)。

吉継の首を埋めていた五助は、藤堂高虎の甥・高刑に見つかります。五助は「主君の首を埋めた場所をいわないでほしい」と頼み、代わりに自分の首をとらせたといいます。そして、五助の首をとった高刑は約束を守り、吉継の首のありかを口にすることはなかったそうです。

なお他説として、切腹した吉継の首は甥・祐玄が米原(現在の岐阜県米原市)に埋めたとも伝えられ、その伝承地には首塚があります。

このほか、領主を務めた越前国敦賀(福井県敦賀市)の永賞寺には、供養塔が建てられています。

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