石田三成の家紋
石田氏の家紋は「九曜」といわれています。ですが、有名なのは何といっても「大一大万大吉」でしょう。
実はこれは家紋ではなく旗印で、三成の肖像画や合戦図などいろいろなところで見られます。また文字の配置も図画によってまちまちです。
「大一大万大吉」は文字紋の一種です。「一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下大吉となる」という意味で、勝利の祈念や縁起のよさから用いたものと考えられます。
豊臣家一筋に生きて散る
石田三成の家は、近江国の浅井氏に仕えていました。それが浅井氏3代目・長政が斃れた「小谷城の戦い(1570年)」以降、この地を治めた羽柴秀吉の家臣となりました。三成はこのとき11歳で、小姓として仕えたといいます。
三成は、武人としての能力もありましたが、どちらかというと官僚としての能力に秀でており、秀吉にもその点で重用されていたようです。
「九州平定(1587年)」や「朝鮮出兵(1592年)」の後方支援、「太閤検地」などで手腕をいかんなく発揮しています。
三成は、豊臣政権の敏腕官僚として采配を振るっていたのです。
ただ、頭脳で出世街道を切り開いていく彼は、腕に覚えのある武人たちからはよく思われていなかったようです。「体を張っているのは我らなのに、後ろにいる奴が何を偉そうに」といったところでしょうか。
その軋轢がはっきりと現れたのが、秀吉死後の「関ヶ原の戦い(1600年)」でした。この戦いで、豊臣家に従っていた武将にも徳川方の東軍につく者がいました。
そして、豊臣方の西軍を実質的に仕切っていた三成は、格上の武将たちを統率できず、さらには多くの内通や裏切りにあうことになります。
ついに西西軍は白旗を掲げ、敗走した三成は捕えられます。そして、江戸時代でいうところの市中引き回しに打ち首獄門という最期を遂げたのでした。
秀吉恩顧の武将が東軍についた理由
「関ヶ原の戦い」は、勢力を増す徳川家康たち(東軍)と、それを阻んで豊臣家を守らんとする三成たち(西軍)という構図でした。後継者争いともいえるこの戦いで、秀吉恩顧の武将たちはなぜ東軍についたのでしょう。
その理由としてよく挙げられるのが、三成です。何しろ彼は武断派の武将たちと折り合いが悪かったものですから、「豊臣家は大切だが、三成のいうことを聞く気にはなれん」と思われても不思議ではありません。
それを表わすように、同じ秀吉子飼いの加藤清正や福島正則は東軍についています。
嫌われる理由もいろいろあったようですが、秀吉の人たらしスキルが三成に少しでも備わっていたら、彼の運命も変わっていたかもしれません。
石田三成のお墓
石田三成のお墓は、高野山奥の院(和歌山県高野町)などのほかに、いくつかあります。
大徳寺塔頭・三玄院(京都市北区)は非公開寺院ですが、門前に「石田三成公御墓地」の石碑があります。この寺院は1589年に石田三成、浅野幸長、森忠政が創建しました。幸長は秀吉の死後に三成と対立した武断派、忠政は森蘭丸の弟です。どちらも関ヶ原では東軍に与しました。
願成寺(熊本県人吉市)には、三成たちの供養塔があります。この寺院は当地の藩主・相良氏の菩提寺なのですが、関ヶ原の際に当時の当主・頼房は西軍を裏切りました。このことから後年、頼房の寝返りによって命を散らせた人々および三成の供養塔を建てたということです。