徳川家康の家紋
徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」、いわゆる「徳川葵」や「葵の御紋」と呼ばれるものです。
これは、徳川家の前身である松平氏が、所領の三河国にある賀茂神社の氏子だったことに由来するそうです。
「葵紋」は京都の賀茂神社の例祭「葵祭」に端を発します。葵は神聖な植物として例祭で用いられ、神社の紋にもなりました。
江戸幕府が成って以降、自家の権威保持に努めた徳川家は「三つ葉葵」の使用を厳しく制限したといいます。
幼少期の人質生活を経て東海の大大名に
徳川家康は、三河国の土豪(その地域に土着している勢力の大きな一族のこと)松平氏のもとに生まれました。
彼の幼少期は、織田氏、今川氏の人質生活に占められており、ここから脱するのは「桶狭間の戦い(1560年)」以後のことです。
当時、今川氏の人質だった家康は、今川義元が織田信長に敗れると、そのくびきから脱し独立を果たしました。
その後、家康は信長と同盟を結び(清洲同盟/1562年)、三河・遠江国と領地を広げていきます。そして「本能寺の変(1582年)」以後は、甲斐・信濃の一部・駿河も領地に加え、大大名となったのです。
清洲同盟は「本能寺の変」で信長が斃れるまでの20年間、続きました。この同盟があったから信長は西進することができ、家康は甲斐国・武田氏や相模国・後北条氏といった東の強敵から領土を守ることができました。両者は背中を守りあった仲ともいえるでしょう。
関ヶ原を制して江戸幕府を開く
信長の後継者となった豊臣秀吉とは「小牧・長久手の戦い(1584年)」で戦火を交えますが、後に臣従。小田原征伐(1590年)の後に、後北条氏の旧領地である関東への転封(領地が変わること)を命じられました。
これは東北を見据えた秀吉が、その抑えとしての期待を家康に向けたためとされます。
関東に移った家康は、難攻不落をほこった小田原城を居城にはしませんでした。後に幕府が開かれ、現代まで続く首都・東京、すなわち江戸にその拠点を置いたのです。
秀吉晩年には五大老(豊臣政権の政務にあたった5人の大名のこと)の筆頭になりました。
そして秀吉没後、前田利家によって抑えられていた家康の台頭や、武断派と文治派の対立といった豊臣政権のわだかまりがあふれ、「関ヶ原の戦い(1600年)」が起こります。
これに勝利した家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。また1615年には豊臣氏を滅亡させ(大坂夏の陣)、日本全国を支配下におきました。
こうして戦乱続きだった100年間に終止符が打たれるとともに、約260年に及ぶ天下泰平・江戸時代の幕が開けたのです。
徳川をレア姓にして価値を高める
家康が姓を「松平」から「徳川」に変えたのは、1566年のことです。これは今川氏からの独立後、三河国を統一した年にあたります。
このとき徳川を名乗ったのは家康一家のみだったそうで、一族のほかの家々は松平のままでした。このことで「徳川家は松平氏の中でも別格」という印象を内外に与えたのです。
さらに、江戸時代には徳川を名乗れる家を将軍家と、家康の血をひく御三家(尾張・紀州・水戸の徳川家)に限りました。しかも、御三家の出身でも分家などは松平を名乗るという念の入れようです。
後には御三卿(田安家・一橋家・清水家)も徳川を名乗れるようになりましたが、ともかく徳川家は家紋同様、姓のネームバリューを高めてその権威の保持に努めたのです。
徳川家康のお墓
徳川家康のお墓は、いくつかあります。家康の遺言により、遺体は駿府の久能山(現在の久能山東照宮)に葬られ、1年後に日光(現在の日光東照宮)に移されました。このことから家康のお墓として、久能山東照宮には「神廟」が、日光東照宮には「奥宮」があります。
このほか、松平氏の菩提寺である大樹寺(岡崎市)などにもお墓があります。