吉川元春の家紋
吉川氏の家紋は「丸に三つ引両」といわれています。
引両紋は、主に足利氏一門が用いた家紋です。吉川氏は藤原氏の支流・工藤氏の流れをくむ家ですが、「応仁の乱(1467~78年)」での功績で、足利氏の支流である細川氏から引両紋を賜ったという説があります。
引両紋は「引き」とも呼ばれます。「両」は「竜」だったともいわれ、竜神にあやかって陣幕などに用いられました。
毛利氏の中国地方制覇を支える
吉川元春は、戦国時代きっての知将・毛利元就の次男です。生まれついての武士で、元服前の11歳のとき元就の出陣に無理やりついて行ったというエピソードがあります。
しかも初陣を飾って以降、負け知らずという猛将ぶり。そんな彼は、毛利元春ではなく吉川元春として有名です。というのも、18歳で生母の実家である安芸の吉川氏に養子に入っているのです。
養父はいとこにあたる当主・吉川興経ですが、元就が彼を隠居させます。そして元春が家督を継ぎ、吉川を乗っ取りました。こうして、同じく養子先を乗っ取った弟・小早川隆景とともに「毛利の両川」として本家・毛利家を支えたのです。
「厳島の戦い(1555年)」で陶晴賢率いる大内軍、「上月城の戦い(1578年)」で尼子氏を撃破し、毛利氏の中国地方制覇に大きな役割を果たしました。
さらに織田軍とも戦火を交えていましたが、「本能寺の変(1582年)」における秀吉との和睦以降、毛利氏は秀吉を支援することとなります。
この頃、元春は家督を嫡男・元長に譲って隠居します。一説には、秀吉に仕えることを嫌ったためとされます。一方で「九州平定(1587年)」には、甥・輝元や隆景に説得され参加。
ただ、この頃には病に体をむしばまれていたようで、出征先の豊前(現在の福岡県)小倉城で死去しました。
勝手に決めた奥さんと夫婦円満
元春といえば、奥さんを勝手に決めたエピソードが知られます。当時の武家は、親が決めた相手と結婚するのが常でした。ところが、元春は独断で奥さんを決めて、元就に報告したのです。
さすがの元就も、さぞ驚いたことでしょう。彼女は毛利氏の家臣・熊谷信直の娘で、元就は信直に対して「犬ころのような息子だが、よろしく頼む」と詫び状を送ったそうです。
この奥さんは家中のやりくりがうまく、4男2女にも恵まれました。息子をいさめる書状は夫婦連名で、良妻賢母だった様子がうかがえます。
異なる個性が団結した三兄弟
元春は、有名な「三本の矢」の逸話で知られる毛利三兄弟のひとりです。三兄弟は上から、内政手腕に優れる隆元、負け知らずの猛将・元春、五大老にまでなった知将・隆景です。
隆元は、偉大過ぎる父・元就や有能な弟たちの陰に隠れがちですが、当時の彼もそれがコンプレックスであったようです。
父への手紙に「弟たちは(養子先の)家のことばかり気にして、相談事も(当主の私ではなく)父にばかり持ちかける。私を見下しているようで腹立たしい」といったようなことを書いています。
元就は兄弟の不仲と本家・毛利氏の行く末を案じ、三兄弟へ「三子教訓状」という文書を与えました。
これにより、元春と隆景はよりいっそう本家に尽くすようになり、1571年に元就が死去すると跡を継いだ隆元の嫡男・輝元を補佐することとなります。
「三本の矢」は創作ともいわれていますが、兄弟の団結があったからこそ毛利氏が中国地方を制覇できたことは間違いないでしょう。
吉川元春のお墓
吉川元春のお墓は、嫡男・元長とともに吉川元春館跡(広島県北広島町)に隣接する海応寺跡にあります。
吉川元春館跡は、その名の通り元春の居館跡です。家督を譲った後の隠居先として1583年に建設を開始しましたが、残念ながら完成を見ることななく死去してしまいました。