加藤清正の家紋
加藤氏の家紋は「蛇の目」といわれています。
蛇の目紋は、ヘビの目に似ていることが名称の由来とされます。その形は、予備の弓弦を巻いておく弦巻をかたどったのがもとといわれ、ここから「弦巻紋」とも呼ばれます。
加藤清正は、蛇の目紋を武具や旗印に使用したほか、調度類には「桔梗」を用いています。この桔梗紋、清正が肥後国(現在の熊本県)に入る際、豊臣秀吉から贈られた調度類についていた家紋でした。
この調度類は讃岐国(香川県)を改易された尾藤氏のもので、清正は尾藤氏の家紋をつけたまま使用したということです。
秀吉と家康に仕える
加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いの家臣で「賤ケ岳の七本槍」に数えられる働きをしましたが、「関ヶ原の戦い(1600年)」では東軍について熊本藩初代藩主となった人物です。
清正は、尾張国(現在の愛知県)で、刀鍛冶の子として生まれました。母親が、秀吉の母といとこだった縁から12歳のときに秀吉の小姓となって以来、彼に従ってきました。「本能寺の変(1582年)」後の「山崎の戦い」や「賤ケ岳の戦い(1583年)」にも参加しています。
その後は、主に後方支援を務めるようになっていきました。豊臣政権の財務官僚であったそうなのですが、では石田三成のような文治派なのかというと、そうではありませんでした。槍働きもなしており武断派だった清正は、やはり三成と衝突していたのです。
そして、秀吉の死後は徳川家康に接近しました。さらに前田利家が亡くなると、福島正則らと三成を襲撃。これを仲介した家康への接近を強めて「関ヶ原の戦い」では東軍につきました。
それでも、豊臣恩顧の武将としてかつての主家を気にかけていたようで、家康と豊臣秀頼の二条城での会見(1611年)を取り持つなどしています。ですがこの会見後、熊本藩へ帰る船内で発病、死去しました。突然のことで遺言も辞世の句もなく、また病名にも諸説あり、その中には家康による毒殺という説もみられます。
熊本の基礎を作った清正公さん
清正ゆかりの熊本との縁が結ばれるのは1588年、27歳のときでした。新田開発や治水工事、南蛮貿易を行って善政を敷き、それまでの「隈本城」を改築して「熊本城」としています。
このときの治水が現在も使用されているほか、熊本城の急こう配の石垣も清正の手になるもので、彼の存在の大きさが感じられます。実際、熊本では今でも「清正公(せいしょうこう/せいしょこ)さん」と呼ばれ、親しまれているそうです。
性格は両極端?幼馴染の福島正則
加藤清正は、同じく秀吉の子飼いだった福島正則とは幼馴染であり親友であったといいます。清正が主に財務や民政面で功績があったのに対し、正則は戦いによる功績が大きかったといいます。
そのためか冷静な清正と熱血な正則というイメージがつきがちな、凸凹コンビといえるでしょう。そんな二人の性格の違いがよくわかるエピソードが残されています。
江戸時代の天下普請で、名古屋城の築城に従事していたときのことです。
正則:「(家康にかかわる)江戸や駿府ならまだしも、妾の子(家康の9男・義直のこと)の城なんか作ってられるか」
清正:「そんなに築城(幕府に従うこと)が嫌なら、国に戻って戦の支度をしろ」
感情を率直に口にする正則と、冷静に判断する清正。どちらも家康への忠誠はあったようですが、その姿勢には性格の違いが表れていたようです。
加藤清正のお墓
加藤清正のお墓はいくつかあります。
まず、縁の深い熊本では、本妙寺(熊本市)に「浄池廟」があります。ここは、清正が父・清忠の追善のために建立したお寺です。
そして、加藤家終焉の地となった山形県鶴岡市の天澤寺にもお墓があります。清正の死後、跡を継いだ3男・忠広は後に改易され、庄内藩(山形県)に移りました。このとき忠広は清正の遺骨を持ち込んでおり、天澤寺に墓碑を建立したそうです。
また、覚林寺(東京都港区)には位牌があります。こちらのお寺は現在も、近隣の方に「清正公さま」と親しまれています。