朝倉義景の家紋
朝倉氏の家紋は「三つ盛り木瓜」といわれています。朝倉氏は、但馬国の古族・日下部氏の流れをくみますが、この日下部氏が木瓜紋を用いていたとされます。一説には、源平の頃に源頼朝から与えられたといい、「三つ盛り木瓜」はそんな主筋ゆかりの家紋なのです。
後に越前に移った朝倉氏が、織田氏に家紋(織田木瓜)を与えます。さらに時代が下り、朝倉氏は織田氏に滅ぼされることとなります。
木瓜紋は、古くは御簾などの周辺にめぐらせる帽額(もこう)に描かれていました。これが名称の由来と考えられます。
足利義昭を手中に得るも、好機を逃す
一乗谷(現在の福井市南東部)に本拠を置く戦国大名・朝倉氏。7代目の孝景が、主君の斯波氏から越前国守護の座を奪って以来、当地を治めてきました。その11代目にして最後の当主が朝倉義景です。
名家の長男に生まれた義景は、1548年に16歳で家督を相続しました。といっても、政治や軍事は祖父の代からの名将・朝倉宗滴に任せていたようです。宗滴の死後には自ら指揮を執るようになりますが、義景自身は武芸よりも文芸を好む人物でした。
義景は、1567年に後の15代将軍・足利義昭が落ち延びてきた際、一乗谷に迎えています。しかし、義昭が求めていた上洛はしませんでした。このとき義景が上洛し義昭が将軍となっていたら、朝倉氏は大きな権力を得られたことでしょう。
しかし義景が動くことはなく、業を煮やした義昭は織田信長にコンタクトをとることになります。
上洛を果たした信長は、将軍となった義昭を傀儡にしようとしていました。それに反発した義昭は、いわゆる「信長包囲網」を形成します。義景もその一員となり、信長とたびたび戦いました。
そして1573年、ついに敗れた義景は逃走先の賢松寺(現在の福井県大野市)で自刃、一乗谷には火が放たれました。こうして越前の戦国大名・朝倉氏は滅びたのです。
第二の京都を作った文化人
義景は、義昭の上洛要請に対してあいまいな態度に終始し、朝倉氏が得られたかもしれない覇権をみすみす逃しています。優柔不断だったのかもしれませんし、義昭に肩入れしてもメリットがないと考えたのかもしれません。
いずれにせよ、義景は日頃から戦ごとよりも公家や文人墨客との交流に身を入れるような文芸を好む人物だったようです。
戦国の世の主君としては頼りない人物ではありましたが、そのおかげで一乗谷では貴族文化が花開き、「第二の京都」といわれるほど栄えました。
人は生まれる時代も家も選べませんが、もしも彼がもっと穏やかな時代に生まれていたら、風流人として持てはやされたのではないでしょうか。
朝倉義景のお墓
朝倉義景のお墓は、福井県大野市と、一乗谷朝倉氏遺跡内(福井市)にあります。
大野市にあるお墓は江戸時代に建立されたもので、後に現在地に移転しています。最初に建立された場所は、義景が自刃した賢松寺の跡地と伝えられる曹源寺境内でした。
一乗谷朝倉氏遺跡のお墓は、江戸時代に福井藩主・松平家により建立されました。