竹中重治の家紋
竹中氏の家紋は「九枚笹」といわれています。笹紋は、笹の葉を文様化したものです。
ほかに、「黒餅」も使用したようです。
その由来には、戦で矢を射かけられたときに、たまたま懐に入っていた餅にあたって命拾いをしたため家紋とした、という説があります。
餅紋は、食べ物の餅を家紋にしたものです。餅は古来、慶賀や神事、戦の携行食として用いられていました。
家紋としては武士に好まれますが、これは「黒餅」が「こくもち」とも読め、これが石持(武士の俸禄)に通じるとして縁起がよいとされるためです。
主君の居城を乗っ取る頭脳派
竹中重治は半兵衛の通称で知られ、豊臣秀吉の参謀として活躍しました。
重治の父・重元は美濃(現在の岐阜県)・斎藤氏の家臣で、重治の初陣は斎藤道三・義龍父子の戦「長良川の戦い(1556年)」でした。
このときは道三側についており、籠城戦の末に義龍軍を退けています。1560年に家督を継いで、義龍とその息子・龍興に仕えました。
この頃の美濃は、織田信長による攻略にさらされていました。
ところが龍興は14歳、若い当主に動揺していた家臣たちから信望を得られず、また祖父・道三の代からの家臣も流出していました。
斎藤氏を去り、秀吉に仕える
3年後、信長の侵攻によって龍興が稲葉山城を追われると、重治は没落した斎藤氏から去っていきました。
そんな重治を登用したいと考えていたのが信長です。重治の勧誘を命じられた豊臣秀吉により、彼はその下で働くこととなります。
秀吉が中国地方攻略の総大将に任じられると、重治もそれに従って遠征に参加します。宇喜多氏の城を調略によって落城させるなど、頭脳で秀吉を支えていきました。
この名参謀は、播州攻略のひとつ「三木合戦(1579年)」のさなかに病で倒れ、陣中で死去しました。この合戦で秀吉は、攻略対象の三木城を兵糧攻めにして降伏させていますが、これは重治がさずけた最期の策だったということです。
また重治は、秀吉から再三養生するよういわれたそうですが、「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったと伝えられています。
秀吉に仕えるまでのエピソードは真実?
重治が秀吉の下で働くにいたったエピソードについて、「三顧の礼で迎えた」とか「重治が秀吉の才能を見抜いて、信長ではなく秀吉の家臣になると了承した」とかいわれています。しかし、いずれも創作の可能性が高いようです。
重治の息子・重門の記したところによれば、信長は秀吉の要請を受けて、重治をほかの与力(大名に加勢する武将のこと)とともに秀吉の下につけたということです。
政務を顧みなくなり、一部の側近を寵愛して好き勝手している龍興。そんな主君に対し、重治は舅・安藤守就とともにお灸をすえることとなります。それは、主の居城・稲葉山城を奪取するというものでした(1564年)。
その日、重治は城に詰めていた弟のお見舞いにきたといって、見舞いの品を入れたとする長持と少数の家臣で城に入りました。そして、弟の部屋で長持から出した武具を装備して城を乗っ取り、龍興を逃亡させたというのです。
重治は、龍興に軽んじられていたといい、そんな主君の鼻を明かしたのでした。このお城は半年後に返還したとも、奪還されたともいわれますが、乗っ取り劇の責任をとったものか、重治は21歳という若さで隠遁生活に入ってしまいました。
竹中重治のお墓
竹中重治のお墓は兵庫県三木市の、重治が死去した陣地のあった山に続く、ブドウ畑の中にあります。
重治は三木を攻めた側ですが、それも昔のこと、地元の方により手入れ・供養が続けられているそうです。