【連載:おはかもん】織田信長に仕え百万石を芽吹かせた前田利家、加賀梅鉢の家紋

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前田利家の家紋

加賀梅鉢(前田家)

前田氏の家紋は「加賀梅鉢」といわれています。加賀の前田氏は菅原道真の子孫と称していたため、家紋も道真ゆかりの「梅鉢紋」を用いたとされます。

梅鉢紋は、5つの円を梅の花弁に見立てた家紋です。道真を祭神とする北野天満宮(京都)や、湯島天満宮(東京)などの紋でもあります。

加賀百万石の祖となった豪傑

利家は、14歳で小姓として織田信長に仕えました。血気盛んで、派手な身なりを好む若者であったといいます。

前田利家

その気性は戦いの場でもいかんなく発揮され、18歳頃には「槍の又左」という異名を持つほどになりました。その後、信長直属のエリート集団・赤母衣衆に名を連ねています。

順調だった利家の人生は、信長のお気に入りの茶坊主(武家で茶の湯や給仕などを務める人のこと)を斬殺したことで2年ほど足踏みすることになります。1559年、利家20歳頃のことでした。

1559年から2年間、浪人生活を送った利家。当初は、信長の怒りも激しく死罪にならんとしていましたが、柴田勝家たちがとりなしてくれて出仕停止処分、つまり解雇となりました。

浪人となった利家の名誉挽回の方法は、いかにも豪傑らしく「勝手に戦に参加して敵の首を挙げる」というもの。

利家は、信長に許されるべく「桶狭間の戦い(1560年)」などに無断で参加して戦功を挙げ、1561年にようやく許されました。

その後、柴田勝家の与力(大名に加勢する武将のこと)として北陸方面部隊の一員となります。越前一向一揆や越後の上杉軍などと戦い、1581年に能登国23万石の大名となりました。

そろばんが使える戦国大名

死んだら元の子もありませんが、何はともあれ家族は養わなければなりません。浪人時代に、すでに正室・まつと子どもがいたというのですから、彼女たちの苦労も並大抵ではなかったでしょう。

奥さんから「ケチ」といわれたというエピソードも残る利家の財布のひもの固さは、この頃の生活苦からきているのかもしれません。

そんな彼は、前田家の決算も自らそろばんを弾いていたそうで、ここにも浪人時代のお金での苦労が身に染みている様子がうかがえます。

利家の死により崩壊する豊臣政権

「本能寺の変(1582年)」後に豊臣秀吉と柴田勝家が対立し、翌年「賤ヶ岳の戦い」が勃発すると、柴田方だった利家は旧知の間柄である秀吉方に寝返ります。

以後、秀吉のもとでも着々と勢力を伸ばして加賀と越中を与えられ、後の加賀百万石の礎を築きました。

こうして豊臣政権の重鎮となった利家の発言力・影響力は大きなものでした。秀吉の死後、その力をもって武断派と文治派の対立を抑えています。

さらに勢力を増す徳川家康のけん制にも尽力しましたが、病に臥してしまいます。そして彼の死により、歴史は一気に「関ヶ原の戦い(1600年)」になだれ込むこととなりました。

前田利家のお墓

前田利家のお墓は、野田山墓地(金沢市)の「加賀藩主前田家墓所」にあります。

野田山墓地の墓

ここには、歴代藩主と正室や近親者の多くが眠っています。周辺には家臣のお墓があり、時代を経て町民のお墓も建てられるようになりました。

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