浅井長政の家紋
浅井氏の家紋は「三つ盛り亀甲花角」といわれています。浅井長政の肖像画にはこの家紋が描かれていますが、亀甲の中に描かれている紋が分かりづらく、「三つ盛り亀甲花菱」にもみえます。
いずれにせよ、この家紋は浅井氏ではなく長政自身の家紋だったともいわれています。
亀甲紋は、六角文様が亀の甲羅を連想させられることからこの名がつきました。亀甲の中にほかの紋を描くという、輪郭としての働きもあります。
北近江に生まれた若き戦国武将
北近江(現在の滋賀県北東部)の戦国大名・浅井氏の3代目にして最後の当主が浅井長政です。
長政が生まれた頃、浅井氏は南近江を統べる六角氏に臣従していました。長政は元服の際、当時の六角氏当主・六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせられたり、六角氏の家臣の娘を嫁にもらわされたりしていました。
家臣たちは格下扱いを受け入れる当主・久政(長政の父)に業を煮やし、クーデターを起こしました。そして長政は、15歳にして当主になったのです。彼は名前を戻し妻を返すことで、六角氏とは手を切ることをアピール。
そして「野良田の戦い(1560年)」で六角氏を破り、北近江の戦国大名として大きな一歩を踏み出したのです。
信長との同盟、そして造反
1567年、長政は織田信長と同盟を結びます。しかし浅井氏には、長政の祖父・亮政の時代からの同盟相手である越前国・朝倉氏がありました。そこで長政は、信長と同盟を結ぶ際に「朝倉氏は攻めないこと」といった条件を設けます。
それが、信長が朝倉義景を攻めたことで破られてしまいます。ここにいたって長政は同盟を破棄し、織田軍を背後から急襲します。
この造反がきっかけで、「金ヶ崎の退き口(1570年)」とも呼ばれる有名な撤退戦。となりました。信長にとって長政は同盟を破棄した裏切り者ですが、長政にとっては信長もまた約束を違えた裏切り者だったのです。
反織田側に立った長政のもとに1573年、織田軍が攻め入ります。長政は義景に援軍を要請しますが、朝倉軍は戦況をみたものか救援することなく退却。
織田軍は、そんな朝倉軍を追って本拠地・一乗谷を壊滅させ、やがて浅井氏の本拠地・小谷城を包囲しました。
このとき、長政は再三降伏を呼び掛けられたそうです。しかし、聞き入れることなく自害。城も落ち、小谷城主・浅井氏は滅亡しました。
兄と夫の間で翻弄された女性・市
長政の奥さんといえば、信長の妹・市です。織田・浅井同盟にからむ政略結婚でしたが、夫婦仲はよかったといわれています。
6年の結婚生活の中で茶々、初、江の三姉妹をもうけましたが、彼女たちの生涯もまた波瀾万丈だったことは有名です。なお、市と三姉妹は小谷城落城の際、織田軍に戻っています。
浅井長政のお墓
浅井長政のお墓は、徳勝寺(滋賀県長浜市)に祖父・亮政、父・久政と並んで建てられています。
徳勝寺は、小谷城を築いた亮政が菩提寺と定めたもので、当時は医王寺といったそうです。その後、亮政の法号にちなんで現在の寺号に改めたということです。
また、長政最期の地である小谷城跡(長浜市)には、浅井氏と家臣の供養塔があります。