小早川隆景の家紋
小早川氏の家紋は「左三つ巴」といわれています。
巴紋は世界各地にみられ、文様の代表ともいえます。日本では、弓用の武具「鞆」の形に似ていたため「鞆絵」と呼ばれ、後に「巴」の字があてられました。
また、弓を操る八幡神をまつる神社の神紋でもあり、八幡神が武神ということもあって、多くの武士が巴紋を用いたといわれています。
ときおり、巴紋のついた瓦がみられます。これは、巴が水の渦巻く様子に似ていることから、火除けのまじないとして描かれているものです。
元就の頭脳派3男、小早川家を継ぐ
小早川隆景は、戦国時代きっての知将・毛利元就の3男です。そんな父の頭脳を受け継いだのか、隆景もまた知将として知られます。小早川姓なのは、次兄・元春が吉川家の養子になったのと同様に、隆景も小早川家の養子になっているからです。
そして隆景が家督を継いで以降、小早川家は毛利家の一門に組み込まれます。元春の吉川家とともに「毛利の両川」と呼ばれる、双璧の誕生でした。
その本家第一ぶりは、長兄・隆元の嫡男・輝元の代になっても変わることがありませんでした。まだ11歳と幼い甥を、主に政務・外交面から補佐しています。
ちなみに、軍事面は猛将の元春が担当。宿敵・尼子氏や、陶晴賢の謀反に倒れた大内氏の残党と争い、毛利氏の勢力拡大に一役も二役も買っていました。
そうした中、織田信長が中国地方に迫ってきました。その命を帯びてやってきた豊臣秀吉によって、中国地方の城が次々と陥落していきます。
そして1582年、「備中高松城の戦い」のさなかに「本能寺の変」が勃発。秀吉が、毛利方にこれを秘密にしたまま和睦を結んで引き返した(中国大返し)のは有名な話ですが、毛利方が事の次第を知ったのは翌日でした。
こんな重大なことを秘すとはとんでもないと秀吉軍への追撃を求める毛利軍でしたが、結んだばかりの和睦を破るのは武士の恥として隆景はこれをとめたとされます。
豊臣政権下でも知力を駆使
隆景は、信長の後継者となった秀吉に積極的に協力しています。秀吉の方も隆景を信頼し、伊予(愛媛県)を与えています。このとき、直接領地を与えられそうになった隆景は、毛利家に与えられた伊予を受領するという体裁にして、毛利家の分家という立場を崩さなかったといいます。
こうした対応は、九州攻め(1586年)後にもみられます。このとき隆景は、筑前・筑後・肥前1郡を与えられましたが、九州に行けば本家毛利の当主たる輝元から離れることになるとして辞退しているのです。もっとも、このときは認められず九州へと移ることになってしまいました。
1595年、大老となった隆景は養嗣子・秀秋に家督を譲り、昔からの家臣だけを連れて隠居。2年後に65歳で死去しました。その訃報に、名参謀としてしられる黒田孝高(如水/官兵衛)は、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたと伝えられています。
隆景の跡継ぎは裏切り者の代表的存在
隆景の跡を継いだ秀秋は、「関ヶ原の戦い(1600年)」で東軍を裏切って西軍崩壊の一因を作ったと伝わる人物です。秀吉の正室・ねねの甥で秀吉の養子だった彼は、幼少の頃は優秀だったようですが、お酒で身を持ち崩してしまい、21歳で急死しています。
そんな秀秋は当初、跡継ぎのいない輝元の養子になるはずでした。そこに隆景が口をはさみ、秀吉に対してこう述べたのです。「毛利は、輝元のいとこを跡継ぎにすることが決まっています。私にも跡継ぎがありませんから、小早川にいただけませんか」
これは、養子話が秀吉による毛利家乗っ取りと看破しての対応だったといわれます。その結果が関ヶ原での一件であり、小早川の名を地に落としてしまいます。さらに、秀秋は子がないまま死去したため、お家断絶のうえ改易となってしまいました。
小早川隆景のお墓
小早川隆景のお墓は、米山寺(広島県三原市)にあります。
米山寺は小早川家の菩提寺で、初代から17代・隆景までのお墓が建っています。
なお、黄梅院(京都市北区)にもお墓がありますが、こちらは非公開となっています。