今川義元の家紋
今川氏の家紋は「丸の内に二つ引両」といわれています。
これは、今川氏が足利一門であるためです。しかも、足利宗家の継承権を持つ吉良家の分家で、一門の中でも別格の存在でした。
庶民に「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまでいわれたそうです。
また、今川義元は馬印に「赤鳥」を用いたといわれています。この漢字は当て字で、実際は動物の毛をすく「垢取り」のことだといいます。
その使用は、駿河今川氏の祖・範国が「赤き鳥とともに軍を進めれば勝ち続ける」という信託を受けたという故事に由来します。
僧籍の3男、名家を継ぐ
今川義元は代々駿河国の守護を務める名家の生まれですが、3男であり家督相続の可能性もほとんどなく、4歳で出家しています。
ところが、義元が18歳のときに兄2人が同日に死去。思いがけず当主の座が転がり込んできた義元は還俗、今川氏を背負って立つことになります。
内政面では商工業の自由化、金山開発などを行い、領国経営に並々ならぬ手腕を発揮してきました。
長らく東は後北条氏、西は織田氏と対立していました。
後北条氏とは8年争いましたが、義元の正室の弟・武田信玄が仲介して和睦。1552年には相模・後北条氏とも縁戚関係を結び駿河・甲斐・相模の三国同盟を締結、外交的にも成功を収めています。
また織田氏とは、三河をめぐって争っていました。三河といえば松平氏ですが、この頃は弱体化しており今川氏の庇護下に置かれるほどだったそうです。織田氏との間で、人質の幼い徳川家康を取り合ったりしています。
最期の戦い・桶狭間
1558年、義元は40歳で嫡子・氏真に家督を譲って隠居します。本拠地・駿河を息子に任せた彼は、尾張攻略を見据えて三河の領地経営に専念していました。
この頃、織田氏は信長の代となっていました。尾張をほぼ統一していた彼に対し、義元は1560年、軍を進めることになります。
最初は優勢だった今川軍でしたが、桶狭間で織田軍の奇襲を受け、義元は命を落とすこととなってしまいました(桶狭間の戦い)。
この戦により一躍全国区に躍り出た織田氏に対し、今川氏は弱体化してしまいます。
徳川家康をはじめとする家臣たちも離反し、さらには同盟を結んでいた武田信玄にも裏切られ所領を失ってしまいました。
ホントはすごい!今川義元
今川義元には、どうしても「織田信長に敗れた武将」としてのイメージがつきまといます。
そこに「お歯黒で輿に乗っている公家趣味の大名」という軟弱そうな人物像も加わり、戦国大名としては無能だったように感じられてしまいます。
しかし、実際には今川家を東海道随一の大大名にのし上げた「海道一の弓取り(東海地方でいちばんの武将という意味)」で、これまで述べたように内政面も外交面も有能な当主でした。
人物像にしても、お歯黒はある程度の身分の人はしていたことですし、輿にいたっては足利将軍家から特別に許されていたという、いわば権威の象徴。
公家趣味も、「西の京」をつくった周防(山口県)・大内氏や、同じく公家文化が花開いた越前(福井県)一乗谷の主・朝倉氏にもみられるように、当時の大名には珍しいことではありません。
東海3か国(駿河・遠江・三河)を支配し、今川氏の最大版図を築いた名将を、その最期だけで判断するのは実にもったいないことですね。
今川義元のお墓
今川義元のお墓はいくつかあります。
最期の地である桶狭間に目を向けると、愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」や名古屋市の「桶狭間古戦場公園」にお墓があります。また、今川氏の菩提寺・臨済寺(静岡市葵区)には御廟がおかれています。