お墓には物語があり、古を生きた人々の生きざまが詰まっています。
今を生きる私たちがお墓に教えられることは図りしれません。
「著名人が眠るお墓」、ここではそんなたくさんの物語を紐解いていきます。
「批評の神様」小林秀雄
名は体を表すというが、お墓もまた体を表す。
小林秀雄は言わずと知れた「批評の神様」とも形容された近代日本文学の批評家の草分けであり、その強靭な思想から巨大な思想家といってもよい文学者のひとりである。
実質的なデビュー作である「様々なる意匠」の中の一節では世に名高い「幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない」と喝破してもいる。その文章に倣うなら、簡単に片付く問題がないもののひとつとして「お墓」の問題も確固として存在していると言えるだろう。人それぞれが様々なる意匠のようにお墓を建てて祀るが、そこにはやんごとなき事情がある。
五輪塔の静けさ
小林秀雄のお墓は鎌倉の東慶寺の一角にある。
見た目は質素な感じの小さな五輪塔である。その墓石そのものには家の名も個人の名前も何かを特定するようなものは一切彫られていない。
卒塔婆に「華厳院評林文秀居士」の戒名がなかったらそれが小林秀雄のお墓だとは思えないような目立たなさであり、小さな静けさを保っている。五輪塔にはこれもまた静かな風情の如来像が彫られているだけである。
批評の愛弟子である白洲正子の文章によると、五輪塔は元々墓石用として購入したものではなかったらしい。
京都の骨董屋で探した五輪塔がやがて小林秀雄の墓標になったということだが、僕はこの逸話がとても好きだ。そしてそれにも増して大好きなのはお墓が適度に苔に覆われて静かに放置されているようにも見える、その荒び方である。
ここには紛れもなく小林秀雄の人となり考え方が凝縮されているように思える。
思想の一片が現れた墓石
同じ著者による「無常という事」というエッセイとも批評ともいえない不思議な掌編の一節に次のような文章がある。
「人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら・・・」― 生きている者たちは日々の仕事に追われ、煩わしい社会や人間悲喜劇の中で生きることを決してやめない。
そのような中で気忙しい生者たちを墓参りなどの日用であまり煩わしたくないとでもいうかのように、小林(という死者の目)から見て子孫たちに適度な距離を保たたせるような、本当の優しさに満ちた思想の一片とも呼べるものが墓石のあり方を通じて如実に現れているように思われるのだ。
思い出し偲び続けること
お前たちはお前たちの日常をまず生きなさい、俺のことは心配するな、俺はどこかの浄土で呑気にしてるから、お墓は苔に覆われたままにしておくぐらいが兆度いいよ、と語ってでもいるように思えるのは僕の勝手な( 小林秀雄のお墓を前にした) 感想なのだが。
「無常という事」には次のような文章もある。「上手に思い出す事は非常に難しい」と。だからこそ僕たちが故人のお墓の前で本当にしなければならないのは、きっと上手に思い出し、かけがえのなかったその人の人生を絶えずあたらしく偲び続けることに尽きるのだろう。