斎藤道三の家紋
斎藤氏の家紋は「撫子」といわれていますが、斎藤道三は自ら考案した「二頭波」を用いたとされます。
波は戦の駆け引きを、飛び散るしぶきは「世の中には割り切れることと割り切れないことがある」という、ものの道理を表しているといわれています。
撫子紋は、花を図案化した紋です。その美しさが好まれて家紋になったと考えられます。また「石竹紋」とも呼ばれます。石竹は中国から渡来した撫子によく似た花で、「唐撫子」という別名があります。
「美濃のマムシ」と称された道三に、可憐なイメージのある撫子はミスマッチかとも思われますが、それゆえに覚えやすくもあります。
謀略により成り上がる
斎藤道三は、僧侶から油商人を経て戦国大名になったといわれる、下剋上の代名詞的存在のひとりです。
道三は謀略を用いて主家の土岐家を乗っ取り、美濃に君臨しました。彼を重んじた土岐頼芸は兄を追放して当主となるのですが、この追放劇を演出したのが道三でした。
頼芸からの信頼はますます厚くなったようで、この頃、長井を名乗っていた道三は守護代・斎藤氏の名跡を継ぐことになります。
ところが、道三が頼芸の弟を毒殺すると風向きが変わりました。頼芸が「次は俺を狙うつもりか」と思ったのかもしれません。2人は対立することとなります。そして1542年、道三は頼芸とその息子を尾張に追放しました。
ここで頼芸に手を貸したのが、織田信長の父・信秀でした。両軍は対峙しましたが、やがて和睦。道三は美濃一国を手中に収めることとなります。信長を見込んで娘・濃姫を嫁がせたのは翌年のことでした。
息子との不和が戦に発展
美濃乗っ取りのやり口から「マムシ」と呼ばれた道三でしたが、1554年に息子・義龍に家督を譲って隠居します。ところが、もともと不仲だった道三と義龍に、決定的な亀裂が入ります。息子が、父に対して挙兵したのです。
そして行われた「長良川の戦い(1556年)」では、義龍側の兵が約1万7千に対して、道三側は約2,500だったそうです。斎藤氏には旧土岐家家臣が大勢いました。土岐家からの乗っ取りの経緯が経緯でしたから、その多くが義龍側についたと思われます。
舅の窮地に、信長は援軍を送りましたが間に合わず、道三は討ち死にすることとなりました。
ちなみに、旧土岐家家臣の中に明智光秀もいたようです。彼は「長良川の戦い」で道三側についていたとみられ、またしても主を失ってしまいました。その後、越前国・朝倉義景に仕えたといわれています。
道三と父、2代にわたる国盗りだった
これまで述べてきた美濃の国盗りは、道三1代で成したことといわれてきました。
ところが、、近江守護・六角承禎が1560年に家臣へあてた書状が発見され、そこには次のようなことが書かれていたのです。
- 義龍の祖父・新左衛門尉は、京都の僧侶だった
- 新左衛門尉は美濃へきて、土岐家に仕えた
- 新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井を名乗った
- 義龍の父・道三の代になると、斎藤を名乗った
- 道三と義龍は義絶し、義龍は父親の首をとった
以上のことから、道三の国盗りは、実は親子2代にわたるものだったという説が有力になっているのです。
斎藤道三のお墓
斎藤道三のお墓は、常在寺(岐阜市)にあります。常在寺は斎藤氏の菩提寺で、道三と父・長井新左衛門尉が美濃を手に入れるための拠点としたお寺といわれています。
岐阜市内には、ほかに「道三塚」もあります。