京都には、2つの本願寺「西本願寺」と「東本願寺」があります。
都市下京区の堀川七条にある「西本願寺(龍谷山本願寺)」は、西本願寺派の総本山。烏丸七条にある「東本願寺(真宗本廟)」は、東本願寺派の総本山で、京都では、それぞれ「お西さん」「お東さん」と呼ばれて親しまれています。
西本願寺も東本願寺も、宗祖である親鸞聖人をお祀りする浄土真宗の寺院ですが、同じ浄土真宗の寺院でも、お西は「浄土真宗本願寺派」、お東は「真宗大谷派」という別の宗派を名乗っています。
浄土真宗は、なぜ、お西とお東に分かれているのでしょうか。
この記事では、浄土真宗とは、西本願寺と東本願寺が分かれた理由・歴史、西本願寺と東本願寺の違い、西本願寺と東本願寺の仲や和解について、ご紹介します。
浄土真宗とは?
浄土真宗とは、浄土宗の開祖・法然の弟子である親鸞が教えを広めたものを、後に弟子が宗教として独立させた宗派です。
浄土真宗の教えの特徴は、阿弥陀如来を信じ、感謝の心をこめて念仏を唱えれば、誰でも仏になれる「他力本願」という考え方があることです。
自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。
浄土真宗には、「肉を食べてはいけない」「妻帯してはいけない」といった自らを律する戒めがありません。ただひたすら、阿弥陀如来を信じることが求められる宗派であり、「信心」という感情自体も阿弥陀如来から授かったものだという考えなのです。つまり、たとえ現世でよい行いをしていなくとも、阿弥陀如来の力があれば極楽浄土へ行けるということになります。
また、神社やお寺では当たり前のように売られている御朱印やお札・お守りがないのも浄土真宗の特徴です。これはお守りのご利益に頼ったり、目先の良し悪しに囚われたりするのではなく、どんな時でも人間を見捨てることのない阿弥陀仏の働きのみにたのんで生きよとの教えをあらわしたものです。
お西「浄土真宗本願寺派」も、お東「真宗大谷派」も、浄土真宗の「他力本願」を教義としていることに違いはありません。
西本願寺と東本願寺が分かれた理由・歴史
浄土真宗が現在のように真宗大谷派と浄土真宗本願寺派に別れた理由については、1570年から1580年までの織田信長と、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺との争いまでさかのぼります。
この争いは石山本願寺一揆、石山合戦などとも呼ばれるもので、この時、石山本願寺内では、信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見が対立しました。
和睦を主張したのは、石山本願寺の宗主であった顕如と、顕如の三男の准如。徹底抗戦を主張したのが、顕如の長男の教如です。
結局、最終的に顕如が和睦を決め、石山本願寺は信長に明け渡されることになるのですが、この時の対立がもととなり、顕如は浄土真宗の宗主の座を長男の教如ではなく、三男の准如に譲ることとなり、顕如と教如の対立は決定的となりました。
その後、信長が本能寺の変で討たれたのち、和睦を決めた顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築しました。これが現在の西本願寺です。
一方、徹底抗戦を主張した教如は、徳川家康に接近し、七条烏丸に寺の寄進を受けました。これが現在の東本願寺です。
こうして、石山合戦における対立が跡継ぎ問題と絡み、徳川家康の時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と浄土真宗本願寺派(西)に分裂することになったのです。
西本願寺と東本願寺の違い
浄土真宗本願寺派(西)も、真宗大谷派(東)も、同じ浄土真宗の教えに則っていますが、親鸞聖人の命日に行われる法要を行う日や、阿弥陀堂と御影堂の位置など、細かな部分に違いがあり、お経の詠み方や数珠のかけ方、仏壇などにも違いがあります。
お経の違い
浄土真宗の主な経典は「観無量寿経」「無量寿経」「阿弥陀経」の3つで、これらは浄土真宗の教えの根源として「浄土三部経」と言われます。また親鸞聖人の著した「教行信証」「正信念仏偈」などがあります。これらの経典は両宗派とも同じです。
お参りにおける作法については、本願寺派と真宗大谷派では、いくつかの違いがあります。
念仏を唱える際に、真宗大谷派では「南無阿弥陀仏」を「なむあみだぶつ」と読みますが、本願寺派では「なもあみだぶつ」と読むという違いがあります。
また、お経を詠みあげる時の音程なども、本願寺派と真宗大谷派では違いがあります。
数珠のかけ方の違い
合掌する際の数珠のかけ方も本願寺派と真宗大谷派では異なります。
真宗大谷派では、房の部分を上にして持ち、房は左手側に垂らします。これに対し本願寺派では、房が下に来るようにして、親指で上を軽く押さえます。
仏壇の違い
仏壇は、本願寺派(西)では柱が金箔。真宗大谷派(東)では柱が黒塗りに加工されています。
また、花立て、香炉、ロウソク立てなどの仏具は、本願寺派(西)では黒系の物、真宗大谷派(東)では金色の物が使用されます。ロウソク立ての形についても、本願寺派(西)では銅に漆塗りの宣徳製のものが、真宗大谷派(東)では亀の上に鶴が乗った形(鶴亀火立)のものが使われます。
西本願寺と東本願寺の現在の仲
江戸時代初期、西本願寺と東本願寺は対立し、お互い敵対するような関係となりました。
これは、当時の日本最大の集団であった浄土真宗の勢力を弱めるために、徳川家康が両派が対立するように画策したという側面もあると考えられています。
しかしながら、江戸時代後半になると両派の対立は和らぎ、現在では、浄土真宗の真宗十派で構成される「真宗教団連合」が結成されており、真宗各派の協調・連携を図るという目的で、両派間でも盛んに交流が行われているようです。
ただし、融和や交流が続いているものの、長年受け継がれた西本願寺と東本願寺のお互いの対抗心は強いようで、強調しながらも一線を画し、切磋琢磨しているという関係のようです。
西本願寺の寺院と東本願寺の寺院の歴史的和解
現在、全国に浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院は、約10,500寺院、真宗大谷派(東本願寺)の寺院は、約8,900寺院あります。
そのうちの、2寺院。真宗大谷派の「慧光寺」(大阪市平野区)と浄土真宗本願寺派の「顕証寺」(大阪府八尾市)が、2022年に歴史的な和解をしたことについてご紹介します。
顕証寺と慧光寺は、ともに浄土真宗中興の祖と言われる蓮如の六男である蓮淳が15世紀後半に開いた寺院です。
本願寺派が西と東に分派した後、両寺は西本願寺側につきましたが、江戸時代中期に蓮如ゆかりの宝物などを巡る争いがあり、慧光寺は1680年に半ば追い出されるような形で東本願寺側に改派したそうです。
以後、両寺は約350年の間、交渉が途絶えていましたが、2017年に慧光寺で親鸞聖人750回大遠忌法要が営まれた際に、顕証寺が340年前の出来事を謝罪。以後、両寺の交流が復活していました。
その後、交流を続ける中、慧光寺に安置されている親鸞聖人と蓮如上人の遺骨が顕証寺にはないことがわかり、慧光寺からの提案により、遺骨を顕証寺に分骨するということになりました。
2022年5月19日、顕証寺で分骨式が行われ、慧光寺の真宗大谷派の僧侶が儀式を行った後、遺骨は浄土真宗本願寺派の寺院である顕証寺に受け渡されました。
本願寺が1602年に東西分派した後、浄土真宗本願寺派(西本願寺)・真宗大谷派(東本願寺)両派の寺院間での分骨は史上初めてのことです。
西本願寺と東本願寺についてのよくある質問
西本願寺と東本願寺が分かれた理由は?
戦国時代末期、織田信長と当時の石山本願寺の争いの中、本願寺内では、信長と和睦するか、徹底抗戦するかで意見が対立。この対立が後継ぎ問題とも絡み、徳川家康の時代に本願寺は、真宗大谷派(東)と浄土真宗本願寺派(西)に分裂することになりました。
西本願寺と東本願寺が分かれた理由についての 詳細はこちら>
西本願寺と東本願寺の違いは?
浄土真宗本願寺派(西)も、真宗大谷派(東)も、同じ浄土真宗の教えに則っていますが、親鸞聖人の命日に行われる法要を行う日や、阿弥陀堂と御影堂の位置など、細かな部分に違いがあり、お経の詠み方や数珠のかけ方、仏壇などにも違いがあります。
西本願寺と東本願寺の違いについての 詳細はこちら>