蒲生氏郷の家紋
蒲生氏の家紋は「対い鶴」といわれています。
蒲生氏郷は幼名を鶴千代といい、会津の黒川城を改築し「鶴ヶ城」と名付けています。とくに城の名称は家紋にちなんだという説もあり、ツルに縁のある人物ですが、残念ながらツルのように長寿とはいきませんでした。
信長に重んじられ、それに応えた氏郷
織田信長の娘婿で、豊臣秀吉が認めたとも警戒したともいわれ、伊達政宗ら東北勢を監視・牽制しながら会津藩の基礎を築いた、利休七哲筆頭のキリシタン大名。
ポイントをまとめただけで、有能な人物だということがひしひしと伝わってくる蒲生氏郷の生涯は、近江国(滋賀県)からはじまります。
蒲生氏は代々、南近江の戦国大名・六角氏に仕えていました。その六角氏が、信長との戦いで敗北した(観音寺城の戦い/1568年)ことから信長に臣従、幼い氏郷は人質として信長のもとへいくこととなります。ここで氏郷は信長に気に入られ、次のような高待遇を受けています。
・信長の娘を正室にする
・信長が烏帽子親(元服の際に烏帽子をかぶせる役で、後ろ盾となる人物のこと)になる
・弾正忠信長の「忠」の文字を与えられ、忠三郎賦秀(本稿は氏郷で統一)となる
信長が、氏郷をいかに重んじていたか、あるいは期待していたかが強く伝わってきます。それに応えるように、氏郷は14歳で初陣を飾るとさまざまな戦に従軍し、武功を挙げていきました。
こうして付き従ってきた舅であり主君である信長が、本能寺で自刃します(1582年)。事の次第を知った氏郷は、安土城にいた父と連絡をとりあい、城にいた織田家の人々を蒲生氏の本拠地・日野城(滋賀県日野町)に保護。明智光秀の襲来に備えて戦の支度をし、立てこもったそうです。
光秀は日野城攻略を考えていたようですが、その前に「山崎の戦い」で敗死したため、幸いなことに日野城が戦火に包まれることはありませんでした。
東北の抑えとして会津に配置
この後、家督を相続した氏郷は秀吉に従います。そして、「賤ケ岳の戦い(1583年)」から小田原攻め(1590年)まで各地で戦い、信長時代と同様に戦果を挙げていきました。
そして、続く「奥州仕置(1590年)」で、これまでの功により伊達政宗の旧領・会津を治めることとなります。これには、政宗たち東北勢や関東の徳川家康の抑えとしての役割もありました。一方で、秀吉が氏郷を警戒して遠くへいかせたという説も。いずれの理由にせよ、氏郷の能力の高さがわかる配置といえるでしょう。
しかし、わずか2年後、氏郷は病を得てしまいます。病状は改まらないまま1594年に上洛、大きな宴会を催しました。秀吉をはじめ諸大名を招いての宴でしたが、氏郷の重病は誰の目にも明らかだったといいます。養生のための上洛といわれますが、もしかしたら最期を悟った氏郷が別れを告げに訪れたのかもしれません。
秀吉らが医師を派遣しましたが、翌年死去。ガンであったと考えられています。その後、蒲生家の家督は嫡子・秀行が継ぎましたが早世し、その子どもたちも世継ぎがないまま亡くなり、蒲生家は断絶してしまいました。
茶の湯が結び付けた友人たち
千利休の7人の高弟を利休七哲といいますが、氏郷はその筆頭でした。彼の茶の湯への深い理解は、利休をして「日本で一人か二人の文武両道の大名」といわしめています。
同じ七哲の細川忠興と高山右近とはとくに親しく、忠興とは悪口を言い合うほど仲がよかったようです。また、右近は氏郷をキリスト教に改宗させた人物であり、最期を迎える氏郷に付き添いました。キリスト教では、神父や司祭が臨終に立ち会いますが、右近がこれを行ったことで氏郷はキリシタンとしての最期を迎えられたといえるでしょう。
蒲生氏郷のお墓
蒲生氏郷のお墓は、興徳寺(会津若松市)にあります。
子の秀行が建立したもので、遺髪が納められているそうです。
なお、黄梅院(京都市北区)にもお墓がありますが、こちらは非公開となっています。