【連載:おはかもん】炎の中で花開いた桔梗は、盛りわずかに散りゆく – 明智光秀

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明智光秀の家紋

明智氏の家紋は「桔梗」といわれています。明智氏は、美濃国に移住した源氏である土岐氏の支流とされ、その土岐氏も「桔梗」を家紋としていました。つまり主筋ゆかりの家紋なのですが、明智氏のものは「水色桔梗」といって家紋としては珍しく色がついています。

水色桔梗

可憐な桔梗紋は、代表的な女紋でもあります。女紋とは、地域によって意味合いは異なりますが、主に母親から娘へ受け継がれる紋のことです。

不透明な前半生

中国地方の覇者・毛利氏を沈めるべく出陣した織田信長の人生は「本能寺の変(1582年)」で断ち切られました。その首謀者は、明智光秀。彼は前半生に確証なし、そして肝心の「なぜ信長を討ったのか」が明らかでないという謎の多い人物です。

明智光秀

光秀の前半生は霧の中ながら、美濃国・斎藤道三に仕えた後、越前国・朝倉義景の家臣になったといわれています。このことが、信長との出会いにつながったようです。ただ、道三の娘・帰蝶(濃姫)は信長の妻ですので、道三の家臣時代に信長とニアミスしていた可能性もあります。

なお近年では、信長に仕える前は医者だったとする新説も現れ、謎の男の過去がなかなか興味深い展開をみせていることは確かです。

織田信長の家臣となり、頭角を現す

光秀が越前にいた頃、将軍にならんとする足利義昭が義景に接触しました。しかし、義景は上洛に動こうとしません。これに業を煮やした義昭は信長に接近しますが、その間を取り持ったのが光秀だったといわれます。

その甲斐あって、信長は義昭を奉じて上洛を目指すこととなりました。この流れの中で光秀は、義景→義昭→信長と主君を変えたようです。

光秀は「金ヶ崎の戦い(1570年)」や「比叡山焼き討ち(1571年)」、「長篠の戦い(1575年)」などで武勲を挙げていきました。そして、1581年には「京都御馬揃え」という軍事パレードの準備を任され、これを成功に導きます。

そうした中で、近江国に5万石を得て琵琶湖沿岸に坂本城を構え、後に丹波国29万石も加えられ34万石の大出世。まさしく順風満帆といえましょう。

ですが翌年、彼の人生は急展開を迎えます。

運命の一夜、本能寺の変。そしてあまりに短い天下

1582年、信長は光秀に羽柴秀吉の援軍として中国地方に赴くよう命じました。そして、信長自身もそちらへ向かうべく少数で本能寺に留まります。この機に乗じた光秀は1万以上の大軍をもって本能寺を囲みました。奮戦した信長は、最期には火を放ち自害したと伝わります。

こうして光秀は天下人となりましたが、それもわずか13日という短いもの。でした。事の次第を知った秀吉が毛利氏と和睦して引き返してくると、「山崎の戦い」で光秀と激突。敗れた光秀は、坂本城へ向かう途上で落ち武者狩りにあって自害し、水色桔梗はあえなく散ったのでした。

光秀が謀反を起こした理由は?

先述の通り、光秀が謀反を起こした理由は明らかではありません。しかし、それゆえに想像の余地があって興味深い謎といえます。

有名なところでは野望説、怨恨説、義憤説、そして黒幕存在説が挙げられます。光秀の性格や信長との関係、時勢など考慮に入れる点が多い分、説も多岐にわたっているのでしょう。

明智光秀のお墓

明智光秀のお墓は、いくつかあります。

西教寺の墓

西教寺(滋賀県大津市)には、光秀とその一族のお墓があります。光秀は、延暦寺焼き討ち後に近江国滋賀郡(現在の大津市)を与えられ、琵琶湖のほとりに坂本城を築きます。西教寺はその近くにあり、総門は坂本城の門を移築したものといわれています。また西教寺には光秀直筆の寄進状が残されているそうで、光秀とお寺の関係の深さがうかがえます。

他にも、西性寺(京都府亀岡市)、高野山(和歌山県高野町)などで見ることができます。

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