築地本願寺和田堀廟のお墓
吉本家の代々墓は、明大前に移設された築地本願寺和田堀廟にある。
和田堀廟は、関東大震災で本堂が類焼するとともに境内墓地等の移転が決まったもので、当時の陸軍省火薬庫跡に移設されたという。
境内には著名人が数多く眠っており、樋口一葉、中村汀女、海音寺潮五郎、渡辺惇一らの小説家・文学者、服部良一、古賀政男等の作曲家、水谷八重子、内田吐夢らの映画人、歌手・笠置シズ子など多彩な故人が祀られている。
詩人で、戦後、特にいわゆる全共闘世代の左翼系活動家等に圧倒的な影響力を持った、思想家でもある吉本隆明をご存知の方は現今においてそれ程多くはないかもしれない。彼は東京月島の生まれであり、出身校も米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の後、東京工業大学を卒業して町工場勤めを経験する等、異色の経歴となっている。
90 年代初頭まで続く主導的な思索活動
「共同幻想論」のほかにも「言語にとって美とはなにか」「心的現象論序説」などの代表作に明らかな様に、彼の関心は人間の諸活動にわたっており、戦後の様々な思想を考える上で、ある種教祖のような役割で捉えられた存在であったことも事実ではないだろうか。
盛んな執筆活動は80 年代においても「マス・イメージ論」のような展開となって現れた。、興味の対象もアニメやファッション等のサブカルチャーを包括して先端的な大衆消費社会への考察に及んだ。私自身は吉本の熱心な読者ではなかったが、当時の新しい文化思潮への理解姿勢には共感を持ったことを覚えている。
そのような多岐にわたる吉本の執筆活動だが、その思考が対象にし得たのも多分90 年代初頭辺りまでの事象で、以降は世界的に始まった情報化・テクノロジー化の激しい渦の中で必ずしも主導的な思索として誰にでも共有されるようなことはなくなったとも言えるのではないか。
吉本個人の問題ではなく一人の思想家が全てに言及し問題提起できるような時代ではなくなったことを意味しているともいえよう。
最後は、大衆の原像のかたわらで
吉本が依って立った基点の一つに「大衆の原像」という考え方があると言われる。
その思索の内実は決して分かり易くはないが、少なくとも自らの東京下町の出自から出発して、最後までその原風景に拘りそれを手放さなかったことだけは確かなようにも思われる。
一般庶民として生き、大衆のひとりとして最期まで全うして死ぬということ。お墓はまさに月島近くの築地本願寺に由来・機縁した境内にあり、わずか30 センチ超程度の小さな石碑のような形で立っている。
それこそひっそりと凛々しく慎ましく、一庶民の確かな目線のままで今も佇んでいるようだ。