不思議に落ち着いた柔らかな雰囲気が漂う墓所
岡本太郎の墓は、東京の奥の院といっても言い多磨霊園の一角にある。
多磨霊園には数々の著名人が眠っている。
教育者・新渡戸稲造をはじめ、詩人の北原白秋、ゾルゲ事件で有名な尾崎秀実、平岡公威(三島由紀夫)、岸田家(劇作家・岸田國士(父)、女優の岸田今日子(妹)、詩人の岸田衿子(姉))など多彩な顔ぶれの著名人の墓石が多い。
岡本太郎のお墓は、漫画家である父・岡本一平と小説家である母・岡本かの子の墓石に相対するように、どこか可愛げな土偶のようにもみえる彫刻として置かれている。
これは「午後の日」と題された岡本太郎本人の手による彫刻で、養女で一緒に暮らしていた岡本敏子さんが墓石に選んだとのことである。
そしてその墓石群のちょうど真ん中には、川端康成が岡本家を「聖家族」と形容した文章が書かれた碑がある。
彼の代表作である「太陽の塔」も、3.11の震災後に原発の風刺画を描いた板が加えられたことで改めて有名になった渋谷マークシティ連絡通路の壁面を飾る「明日の神話」もそうであるが、エネルギーが溢れ出したようなその絵画や彫刻群は、美術館などの陳列棚に収まっているよりも、むしろ屋外に置かれてあることこそ似つかわしいと思う。
岡本太郎独特の感性が人々を魅了
岡本太郎は、大阪万博で自らプロデューサーを務め、そこで展示された「太陽の塔」に代表されるように、その時代の日本で知らない人はいない芸術家(画家)だったといえる。
だが岡本太郎その人を強く世に知らしめたのは、後年テレビ番組等に盛んに出演して、「芸術は爆発だ」とか「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」などの強烈な個性によるメッセージや、どこか奇矯な言動や所作にも通じるような可笑しみの雰囲気を漂わせテレビを通じてお茶の間に登場したことが一番大きかったように思われる。
人類学や社会学の草分けとなるような数々の評論も手がける
一見奇抜にもみえる言動が目立つ岡本太郎であるが、彼が前衛芸術家として文化的な先導役を担うような形で世に登場しつつも、きわめて早い段階から沖縄文化や縄文時代の土器を評価していた。
また、人類学(民俗学)や社会学の草分けとなるような数々の評論も手がけていたことは必ずしも十分に知れ渡ってはいないかもしれない。
岡本太郎の物事の周縁に対する知の興味の持ち方には、彼がフランス留学時代に民俗学者のマルセル・モースに師事したことや、ジョルジュ・バタイユなどの当時一流の社会学者・文化人類学者たちとの交流があった背景なども影響しているのだろう。
天才芸術家は会得したさまざまな知識や考察を糧として、数々の傑作を生み続けてきたといえるのではないか。