墓石には「Niagara」という文字が刻まれる
大瀧詠一の墓は東京都羽村市の羽村市営富士見霊園にある。
ただし、それ程広くはない羽村市営富士見霊園で「大瀧」という名前を探しても見つかることはない。墓石の正面には「Niagara」と記されているだけだからである。
墓石をよく見てみると、ナイアガラの滝をイメージしているのであろう、縦にストライプの線が刻まれている。そして墓の左上にはレコードのドーナツ盤を模した彫刻がなされている。
さらに近付いて見ると、ある曲の譜面の一節が墓石に彫られていることが分かる。この譜面を読んで、すぐにその曲を口ずさむことができれば、かなりの「通」に違いない。その曲は 「ナイアガラ・カレンダー」というアルバムに収録されている「青空のように」である。
「青空のように」は子供の頃から、空の向こうにある世界に憧れを抱き続けてきた大瀧詠一にふさわしい一曲。大瀧詠一は死しても、その魂は青空に溶けて世界中を巡っている、そんなイメージが読み取れるような墓であると思う。
住み慣れた場所に程近い、富士見霊園に眠る
大瀧詠一は1970年に松本隆や細野晴臣らとバンド「はっぴいえんど」を結成してデビュー。
その後、「ナイアガラ・レーベル」を立ち上げ、数々の名曲を世に送り出すと同時に、他のアーティストへの楽曲提供も行った。松田聖子の「風立ちぬ」も彼が生み出した曲である。
大瀧詠一は羽村市営富士見霊園から程近い西多摩郡瑞穂町に、米兵用住宅を改造した平屋一戸建ての自宅兼スタジオ(通称:Fussa45)を持ち、1973年にこの地に移ってから死ぬまでそこに居を構えていた。
晩年この自宅スタジオでアメリカンポップス史を研究していた大瀧詠一にとって、古き良きアメリカの雰囲気が感じられる同地は居心地の良い場所だったに違いない。
曲の中に織り込まれた憧れの眼差し
大瀧詠一は1948年に岩手県江刺郡(現在の奥州市)に生まれ、母子家庭に育ったという。大瀧詠一は子どもの頃からFEN(米国極東放送)を聴き、電波に乗ってくるアメリカンポップスやマージービートに憧れて育った。
その憧れの感覚は、RCサクセションが「トランジスタ・ラジオ」で描いているような、ホットなナンバーが空の向こうからやってくるというあの感覚であり、同時に、この空の向こうに僕らの知らない素晴らしい世界があるに違いないという感覚にも通じている。
「冬のリビエラ」(1982年)といった世界各地の名所をイメージとして織り込んだ名曲を次々と生み出すことになるが、それらは、訪問体験に裏打ちされているというよりも、あくまでも日本からの憧れの眼差しによって、ロマンチックに仕上げられたのだといえる。