福島正則の家紋
福島氏の家紋は「福島沢瀉」といわれています。
沢瀉紋は、オモダカの葉と花を文様化したものです。オモダカは水辺に自生し、夏に白い花を咲かせます。群生が弓矢を立てたように、また葉が矢じりのように見えることから、武将が好む家紋のひとつになりました。
武勇に優れる武断派のひとり
福島正則は豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ケ岳の七本槍(賤ケ岳の戦いで、秀吉方で功名をあげた7人のこと)のひとりです。
もとは尾張国(現在の愛知県)の桶屋の息子でしたが、母親が秀吉の叔母だった縁で小姓として仕えました。
数々の戦いに参加し、「賤ケ岳の戦い(1583年)」では七本槍の筆頭に挙げられる働きをみせ、5千石を与えられています。その後も四国攻め(1585年)や九州攻め(1587年)、小田原攻め(1590年)などで功績をあげています。
そんな正則はもちろん豊臣恩顧の武将ですが、「関ヶ原の戦い(1600年)」では徳川家康方の東軍についています。
その理由として、武断派と文治派の軋轢が挙げられます。正則は武断派で、文治派の代表ともいえる石田三成とは不仲だったといいます。
その険悪ぶりたるや、対立を抑えていた前田利家が亡くなると、幼馴染で親友の加藤清正らと三成を襲撃したほど。この事件は家康の仲介で決着をみますが、このあと正則の家康への接近は深まり、養嗣子・正之の正室に家康の養女を迎えています。
そして「関ヶ原の戦い」では、いち早く東軍への参加を表明。西軍副将・宇喜多秀家軍の戦いに勝利し、その功績により安芸と備後(広島藩)を得ています。
江戸時代に入り転落
世は江戸時代、正則は幕府による天下普請(全国の諸大名に行わせた土木工事のこと)などに励む一方で、豊臣家を案じ続けたといいます。
家康と昵懇になる一方、幼い頃から仕えた秀吉とその一族への忠誠もいまだあり、その心境は複雑なものであったでしょう。
そんな態度が裏目に出たか、家康没後の1619年、広島城を幕府の許可なく改築したとして広島藩から高井野藩(信濃と越後の一部)に移されてしまいます。
正則はこの後、嫡男・忠勝に家督を譲って隠居しました。ですが1620年に忠勝が死去し、1624年に正則も息子の後を追うように亡くなりました。
このとき、幕府が派遣した検視役が到着する前に、正則の遺体を火葬したことから、藩主家・福島家はお取り潰しに。しかし、正則の功績を考えた幕府により、彼の末子・正利が旗本として存続することとなりました。
酒好き福島正則と民謡「黒田節」
「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」
有名な福岡の民謡「黒田節」の歌詞は、お酒好きな福島正則のエピソードをもとにしています。
ある日正則は、黒田長政の家臣・母里友信を使者に迎えました。お酒の好きな正則はすっかりできあがっていて、友信にお酒をすすめます。友信は酒豪でしたが、仕事中ですし主君から飲酒を禁じられていたこともあって、これを断ります。
すると、正則は「黒田の家の者は、これしきの酒も飲めないのか」と絡みます。そして、大きな盃にお酒をなみなみ注ぎ、「これを飲み干したら褒美を何でもやろう」といったのです。
これで心の決まった友信、見事大盃を飲み干して褒美を所望します。それは、正則が豊臣秀吉から賜った日本号という槍。自慢の槍でしたが、武士に二言はないというわけで日本号は友信の手にわたってしまったのでした。
福島正則のお墓
福島正則のお墓は、いくつかあります。
まず、最期の地となった高井野藩に目を向けると、岩松院(長野県小布施町)が挙げられます。ここは正則の菩提寺で、境内に霊廟があります。
続いて、生誕地である尾張国では、菊泉院(愛知県あま市)に位牌があります。こちらも正則の菩提寺で、肖像画などが奉納されています。
そして、旗本となった正利が開いたお寺である正覚院(東京都港区)には供養塔があります。その隣には正利のお墓も建てられています。